日清戦争 

日清戦争 (増本久聖香)

●日清戦争
1894年7月〜1895年4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清の戦争。
中国では甲午中日戦争と呼ばれている。
 
1894年5月         朝鮮政府、東学党の乱の鎮圧を清朝に依頼。
     5月31日      内閣弾劾上奏決議案が衆議院で可決され、伊藤内閣が倒閣の危機に直面する(>_<)
     6月2日       在韓日本人の保護を名目として日本軍の朝鮮派兵を決定し、衆議院を解散。。
     6月5日       大本営を開設し、朝鮮への派兵を開始する!
     7月16日      日英条約改正が実現。
     7月20日      朝鮮政府に対して清軍の撤兵を要求する最後通牒を発令。
     7月23日      日本軍、ソウルを制圧。
     7月25日      豊島沖の海戦(高陞号事件)。
     7月29日      威歓会戦。
     8月1日       対清宣戦布告。
     9月15日・16日  平壌攻略。
     9月17日      黄海海戦。
     10月8日      閔妃(明成皇后)殺害事件。
     10月下旬      第一軍(山県有朋大将指揮)が満州に侵入。
     11月21日     旅順攻略。

1895年1月5〜12日   威海衛攻撃(北洋艦隊全滅)。
     1月27日     御前会議で講和交渉開始が決定。
     3月        遼東半島全域を制圧。
     4月17日     講和条約締結(下関条約)。
     4月23日     三国干渉により遼東半島を返還。
     5月8日      批准交換。


●下関条約

1895年4月、下関で伊藤博文と李鴻章との間に下関条約が結ばれ、講和した。その主な内容は以下のようだった。

・清が朝鮮の独立を認める。
・遼東半島、台湾、澎湖諸島の日本への割譲。
・賠償金2億両を日本に支払う。
・新たに重慶ほか4つの港をひらく。

このうち、遼東半島には、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉で日本は放棄することになった。 →ロシアがとった!!

これを機に日本はロシアと利害が衝突するようになり日露戦争が起こるきっかけとなった。
また、清は列強各国に領土を租借されるようになった。



●まとめ

私は今回、日清戦争について調べるにあたって、難しい言葉がでてきたら、その意味をしっかり調べて、自分なりにまとめてみようと思いました。

そして、冬休みの最初のほうからガンバって、やっと今おわりました。

日清戦争については、最初は日本は頼まれてないのに自ら助けにいくなんてえらいなぁって思っていて、
それだけならよかったのに、手柄がないと帰れないからという理由で戦争を始めてしまうのはよくないと思います。

ちゃんとした理由があったら戦争をしていいのか、といったらそうではないけど、すごくくだらない理由で日清戦争が始まったかと思うと、悲しくなります。

日本はもう戦争はしないと誓ったけど、世界中の国がそう誓ってくれるといいな、と思います。

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日清戦争 (成井龍樹)

 日清戦争とは、1894(明治27)年から翌年にかけて、朝鮮をめぐって起こった日本と清との戦争である。

 まず、朝鮮半島で甲午農民戦争が起き、戦争を鎮圧するために韓国政府が清に出兵を依頼した。
その直後に依頼されていない日本も戦争鎮圧するために出兵した。
しかし、日本軍がついた頃には戦争はすでに終わっていた。何もしないで帰るのはイヤだったので、そこで清と共同で朝鮮の改革をする事を提議した。
しかし、清がそれを断ったため清と戦争を始めた。

戦争する事自体間違っているのにそんな理由で戦争をするなんてとても日本はバカだっただなぁと思う。
しかも日本側の死者だけで約10000人もでてしまった。

 日本は、この日清戦争で勝利して下関講和条約を結びました。

下関講和条約の内容は
1.朝鮮を独立を清に認めさせる 
2.遼東半島、台湾を日本の領土に加える 
 3.賠償金を銀2億両(約3億円) 
4.沙市、重慶、蘇州、杭州の4っの港を開港させる

というものである。
絶対に日本が悪いのにこんなに賠償金をもらうのは絶対間違っていると思う。

 日本は清に勝ったので、調子に乗ってロシアにまで戦争をふっかけてしまった。
この戦争は結局引き分けで終わった。
しかし、日清戦争の時とは違って賠償金が無いので、ものすごい損失となってしまった。

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日清戦争 (小林直希)

 1894年8月、日清戦争が起こった。
当時、日本は自国の安全を保つため朝鮮と中立を望んでおり、また、朝鮮が他の大国の属国になって外国が自国に攻めやすくなるのを防ぐために、1885年、清国と天津条約を結んだ。
この条約は「もし、朝鮮国に内乱や重大な異変があった場合、両国はもしくはそのどちらが派兵するという必要がおこったとき、互いに公文書を往復しあって十分に了解をとること。乱が治まったときは直ちに撤兵すること。」という内容であった。

そして、1894年、朝鮮の農民が外国の侵略と政府の悪政に反対して東学党の乱が起こった。
このとき、反乱を鎮めるために清国が了解をとらずに勝手に出兵してしまった。
日本は、もしこれを許せば朝鮮に関わることが出来なくなると考え、日本もすぐに出兵した。
しかし、朝鮮に着いたときには東学党の乱はすでに鎮まっていた。
しかし、両国とも兵を撤退せずににらみ合いが続き、7月27日、ついに豊島沖で両海軍の撃ち合いになった。
これをきっかけに8月1日に、日本は対清宣戦布告し、日清戦争が始まった。

日本軍は連戦連勝を続け、清国の首都北京にせまり、1895年3月、清国はアメリカ公使を通じて日本に講和を申し入れてきた。
そして、4月17日下関で日清講和条約(下関条約)が成立し、清国は日本に二億両の賠償金をしはらい、遼東半島や、台湾、澎湖島をゆずり、朝鮮の独立を認めることを決めた。
ところが、その1週間もたたないうちに、前々から満州や朝鮮に進出しようとしていたロシアがドイツとフランスをさそって遼東半島を清国に返すよう申し入れてきた。これを三国干渉という。
もし、この申し入れを拒否し、ロシアが戦争をしかけてきたら、立ち所に負けてしまうと日本は考え、やむなく遼東半島を手放した。

そのため、日本の政府と国民は軍事力を強くしなければならないと痛感し、政府は日清戦争で得た賠償金のほとんどを軍備につぎこみ、国民はこれに協力して必死に働いた。

僕は三国干渉後の国民が団結して国を盛んにしようとしたことに驚き、それと、三国干渉のように領地の取り合いが多く行われていて、世界が大きく動いていると感じた。
話が変わるが、日本の教科書では日清両国がこの日清戦争の原因となった東学党の乱を静めるために出兵したと書かれているが、韓国の教科書では日本だけが出兵したと書かれているのだ。
なんだかこのことについて違和感を感じた。

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日清戦争 (林 将人)

●日清戦争の始まり

 1841年、1845年の二回にわたるアヘン戦争の影響で、本格的にアジアに欧米が進出してきていた。
このとき日本は欧化政策の真っ最中で、このまま清や朝鮮を欧米の植民地にされるととても太刀打ちができなくなるので、早めに朝鮮を日本のものにしたかった。

 そのころ朝鮮ではまだ宗教(儒教)を重んじる国で、なかなか近代化が進まなかった。
それを利用し日本は、江華島に乗り込み無理やり開国させ(江華島(カンファド)事件)朝鮮との間に日本に有利な不平等条約(日朝修好条規)を結び朝鮮支配に乗り出した。
また、同じように欧米諸国も朝鮮に圧力をかけていった。

 1894年、朝鮮で相次ぐ外国の圧力と朝鮮政府に対する不満が爆発し、東学(キリスト教に対抗してできた19世紀の新興宗教。呪文を唱えれば万事うまくいくというもので、厳しい政治を糾弾するものであった。これは、中国、朝鮮で広まった)を信仰する農民が中心となって、大規模な反乱を起こした。
これを甲午農民戦争という。

 この反乱がとても強いものだったので、朝鮮は清に助けを求めた。あらかじめ軍の準備ができていたため、直ちに出兵した。そして軍を朝鮮に駐留させたのち、清の海軍を攻撃しこれを宣戦布告とし、1894年日清戦争が始まった。


●日清戦争のさなか

 日本軍はまず、黄海で清の海軍と戦い、激戦の末遼東半島の大連と旅順をおさえ、その後山東半島や台湾へそこを基点に進軍した。
その結果、台湾と朝鮮半島、遼東半島を制圧しわずか8ヶ月で終戦となった。


●そしてその結果

 1985年、下関で講和会議が開かれ、下関条約を結んだ。
これにより清は朝鮮の独立を認知し、遼東半島、台湾、ポンフー諸島日本のものとした。
また、清は賠償金として、3億6000万円を日本に支払った。


●感想&意見

 日本は、欧米に対しては弱腰なのに、アジア諸国に対してはかなり強気だとおもいました。
このように、一方的に条約を結んだり、勝手に東アジア諸国に対して宣戦布告し支配したのだから、東アジアの諸国からいい印象を持っていないのもうなずけるとおもいました。
だから最近のサッカーアジアカップでの日本への過度のブーイングに対して日本政府が怒るのは、おかしいと思いました。
逆にその昔に日本から受けた仕打ちの怒りのはけぐちだっだのではと思ってしまいました。

 日本は戦争で多大な迷惑を近隣諸国にかけてきました。
ですから僕たちの世代はまず、その近隣諸国との大きな溝を埋めていくことから始めないといけないと思っています。
今の韓流ブームはその第一歩だと思っています。

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日清戦争 (小林真奈)

 この戦争の原因は、1894年、朝鮮で日本や欧米諸国の進出と朝鮮政府に対する不満が爆発し、東学を信仰する農民が中心となり、反乱をおこした。
農民軍は各地で政府軍をやぶった。
これを抑えるために、朝鮮政府が清国に助けを求めると、前から清との戦争の準備をしていた日本はただちに朝鮮へ出兵した。
日清両国が出兵したとき、すでに反乱は治まっていた。
しかし日本は軍隊を駐在させるため、改革案をだし、これに対する回答を不満として、朝鮮の王宮を占領。
そして日清戦争がはじまった!!!!!!!

結果は日本の勝利!!!!

下関で講和条約が結ばれた。
清は朝鮮の独立をみとめ、日本にリャオトン半島と台湾を譲り、多額の賠償金を支払うことになった。



●感想:日本もひどいな〜と思いました。

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日清戦争 (今井貴恵)

日清戦争・・・1894年、日本と清は朝鮮半島の支配を巡り戦争をした!


Episode1

 日本がおしつけた日朝修好条規により、朝鮮の安い生産物を日本の商人が大量に買い上げ、朝鮮では物不足が深刻となりました。
また、清国は朝鮮半島に対する影響力が弱くなっていることに恐れを感じました。

 このような状況の中で、朝鮮政府の不正に農民たちは反発し、戦いをおこしました。
東学という学問を学ぶ人たちが農民軍の中心になり、朝鮮半島の南半分を中心として力をのばしていきました。
朝鮮政府は農民軍をおさえるために清国に出兵要求をだし、助けを求めました。
それを知った日本は(頼まれもしないのに、)朝鮮に軍隊をおくりました。(甲午農民戦争)

 農民軍は清国と日本から軍隊が来ることを知って朝鮮政府と休戦し、清国・日本の軍隊を朝鮮半島から撤退させようとしました。
しかし、日本軍は撤退せずに農民軍を破り、清国と戦い始めました。(日清戦争)


Episode2

 朝鮮半島を主な戦場とした日清戦争は日本の勝利でおわりました。
1895年、山口県下関で講和会議をひらき、日本側は、首相の伊藤博文・外務大臣の陸奥宗光、清国側は李(リ)鴻(ホン)章(チャン)が交渉に立ち下関条約を結びました。


★下関条約★

1,朝鮮の完全な独立

2,台湾と遼東半島

3,賠償金2億両(今の3億円)

 日本はこの賠償金で軍事力を強化し、産業の育成に力をいれました。領土として台湾と注号の遼東半島を得るようになりました。
しかし、朝鮮半島は独立どころか日本に以前にも増した無理な要求を突きつけられるようになりました。



Episode3

 遼東半島が日本の領土となったことを知ったロシア・フランス・ドイツは半島を清国に返すよう日本に要求しました。(三国干渉)
日本政府は三国を相手に戦っても勝ち目がないと判断し、遼東半島を清国に返し、賠償金を受け取りました。

 しかし、ロシアが主導したこの事件に多くの日本人は反感を抱きました。
このころ「臥薪嘗胆」(将来の成功のために苦しいことを耐え抜くこと)という四字熟語が流行りました。



●感想

 日本は条約改正まで朝鮮のような国内が不安定な国なのに、数年間ですごく変わったのだな…って思うとびっくりしました。
領土争いが大きな戦争になったって考えると当時の日本は植民地のある強い国になりたかったっていうことが分かりました。
この戦争で日本が勝ったことをきっかけに「10年後に日露戦争をして…世界のうねりに組み込んでいったんだと思います。

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日清戦争 (清水晴子)

1.甲午農民戦争が起こって・・・

 1894年、朝鮮で甲午農民戦争が起こった。儒教・仏教などを統一した思想を中心とした東学党というグループ集団の指導者の全臻準(ぜんしんじゅん)に率いられた農民たちが、国内の近代化を求めるのと、日本と欧米資本主義の侵略に反対する反乱を起こした。


2.清国たすけて〜

 朝鮮政府はこの反乱を抑えることができず、清に助けを求めた。
清はただちに大軍を送り、そのことを日本に伝えた。通告をうけた日本もいそいでソウルに出兵した。
しかし、農民の反乱軍が朝鮮政府と和議を結んだため、朝鮮政府は日清両軍に撤兵を求めた。


3.日本のもくろみ

 日本はこの機会に朝鮮への支配力を強化しようと考え、清にいっしょに朝鮮の内政改革を行うことを提案した。
しかし、これが清に拒否されると、単独で朝鮮の改革を行うことを要求した。
ちょうどその頃(1894年7月16日)、日英通商航海条約改正の調印が行われた。


4.宣戦布告

 条約改正が調印された9日後(25日)、日本海軍は豊島沖で清国艦隊と交戦した。
陸軍も攻撃を始めた。8月1日、日本は清国に宣戦布告をした。


5.日本の勝ち・・・

 近代的な装備を持ち、よく訓練させられていた日本軍は各地で清軍を圧倒し、開戦してから約2ヵ月後には朝鮮半島全域を征服した。
その後、清の領土内に攻め込み、遼東半島・山東半島の威海衛(清海軍の基地)・台湾・澎湖島まで攻略し、日本の勝利に終わった。


6.講和条約の調印

 1895年4月、日本の下関で日清戦争の講和条約が調印された。
その内容は、
(1) 清国は朝鮮を完全な独立国として認める。
(2) 遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲する。
(3) 賠償金二億テールを日本に支払う。
(4) 沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開く。

 等だった。


7.日本の利益♪

 この結果、日本は朝鮮の支配権を得て、南方進出の拠点になる台湾と中国進出の足場となる遼東半島を確保した。
また、多額の賠償金(当時の日本円で約3.1億円、これは国家歳入の3倍ちょっと)を得たことにより、資本主義の発展と軍備大拡張の資金を確保した。


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●感  想

 こんな帝国主義の時代に生まれず、今みたいに平和な世の中でよかった。
今の時代だったら、あんないっぱい賠償金もらっといて軍備拡張に使うなんてありえない。
多分、福祉や新潟大地震の復旧やインドネシアの津波の援助に役立てると思う。でも政治家が使っちゃうかも・・・。
とにかく、戦争の話を聞くと、今の時代に生まれてよかったなぁと感じる。

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日清戦争とは (野崎耀平)

日清戦争とは?

簡単に言えば、1894(明治27)年から翌年にかけ,朝鮮(李氏朝鮮)をめぐっておこった日本と清(中国)との戦争です。

日本の隣の国,朝鮮は清の従属国でした。
日清戦争の原因は南の方へ勢力を広げているロシアが朝鮮を植民地化して日本に攻めてくる前に、朝鮮を独立国にするため清と戦おうと日本が思ったからです。
自分たちの考えで国を治めていくというよりも,周りにある強い国のいうことに従う傾向がありました。
しかし,朝鮮国内には,自分たちの国は自分たちの考えで治めよう,朝鮮を独立させようという考えの人が大勢いました。
独立を求める人々は,乱を起こしました。

1894年,朝鮮で農民の反乱である東学の乱(甲午農民戦争)がおこり,朝鮮が清に援軍をもとめると日本も居留民の保護を名目に出兵し,日清両軍の戦争が起こりました。

近代的な軍備をもつ日本軍は,朝鮮から満州に進出し,各地で勝利をおさめた。

1895年,清は降伏し,下関で講和会議を開いて下関条約を結びました。
これによって,清は朝鮮の独立をみとめ,遼東半島・台湾などを日本にゆずり,多額の賠償金(今の約3億1000万円)をしはらうことになりました。
また、日清戦争の結果,日本は国際的地位が向上し,大陸進出の足場を築きました。

僕の感想は、日本が先のことを考え、朝鮮を独立させなかったら日本はロシアの植民地になっていたかもしれないと思うと日本の決断は正しかったと思う反面犠牲を生み出す戦争は政治の延長線上にあるので、いつ戦争に巻き込まれるかわからないし、ほかにも戦争の火種はどこにでも転がっているような世の中で後世にも命の尊さを伝えるべきだと思いました。

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日清戦争について (渡邊真帆)

●原 因

 明治維新後、日本は朝鮮と開国を求めて交渉を続けていた。
しかし、朝鮮がこれに応じようとしないことに業を煮やした日本政府は、1875年、江華島付近に戦艦を二隻派遣し射撃練習を行い、朝鮮を威嚇した。
これに対して朝鮮が砲撃したため、日本は砲台を砲撃し、陥落させ、江華島を占領した。(江華島事件)
そして翌年1876年に、日朝修好条規(日本が欧米諸国にむすばされたような不平等条約・別名江華条約)をおしつけ、朝鮮を日本の市場としようとした。
しかし、そこへ清が、「朝鮮は清の属国だ」と主張して日本の動きに対応したため、日本と清との対立は深まっていった。
さらに、1894年に、朝鮮で外国勢力をしりぞけようとする農民戦争(甲午農民戦争)が起こり、この争いを鎮めようと朝鮮に出兵した日本と清が武力でぶつかり合い、戦争になった。


●経 過

 豊島沖海戦→成歓・牙山の戦闘→宣戦布告→平壌の戦闘→黄海の海戦→鴨緑江の戦闘→旅順の攻略→海城付近の戦闘→蓋平付近の戦闘→遼河平原の掃討→終戦


●結 果

 日本軍の勝利に終わった。
1895年、アメリカの仲介のもとで講和会議が山口県の下関で行われ、「清は朝鮮の独立を認める」「遼東半島・台湾・ポンフー諸島を日本の領土とする」「清は賠償金2億両(約3億1000万円)を支払う」「杭州など4つの港を開港する」ことが決められた。
しかし、遼東半島については、ロシア・フランス・ドイツの3カ国が反対したため、清に返還した。


●感想・意見

 多くの人は戦争はいけないという。
しかし、これはどの場面でも当てはまることだろうか?
確かに、戦争では多くの人が死ぬし、お互いの国が戦争によって得られるものはほとんどない。
しかし、戦争がはじまるとき、もし戦わなければ、命よりもっと大切なものを失うこともあるのだ。

 例えば、第二次世界大戦の時、ヨーロッパ諸国はヒトラーのドイツを倒すために全力で戦った。
もしこの時、「戦争は悲惨だからやらない」などといって戦わなかったら、おそらくヨーロッパの国々はドイツに支配され、国民は奴隷としてこき使われるか、あるいは殺されてしまったかだろう。
このような場合は、戦ったほうが失う物が少なくてすむのである。
また、その他の場合は、攻め込まれた側は戦うしかないので、どんな理由があろうとも、開戦の原因は常に攻め込んだ側にある。
 この場合、江華島事件による日本と朝鮮の戦争がきっかけで日清戦争が起こった訳である。
最初に砲撃したのは朝鮮であるが、他国近海での砲撃練習は威嚇射撃と思われても仕方がないので、開戦の原因は日本側にある。
日本側は朝鮮が開国を受け入れないためにこんなことをした訳だが、要求に応じないからといって武力を行使していいはずはないので、じっくりと話し合って決めてゆくべきだったと思う。

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日清戦争について (立入聖悟)

 日清戦争は、昔から朝鮮に勢いを伸ばしていた清国を朝鮮から追い出し、日本が勢いを伸ばそうとして始めた戦争である。
江戸時代の末頃から日本が朝鮮に注意を払うようになり、1873(明治6)年に征韓論が起こってからは、いっそう大きな注意が朝鮮に向けられるようになった。

 1875年9月、日本は雲揚という軍艦を朝鮮の西海岸に派遣し、江華島沖から漢江に遡って測量を行った。
 よその国の軍艦が自分の国の領域の中に断りもせず入ってきたので、朝鮮の軍隊はもちろん、日本の軍艦めがけて発砲した。
しかし、これは日本にとって、待ち受けていたことであった。

 日本の政府は、あくる1876年2月、黒田清隆と井上馨を全権として朝鮮に送り、朝鮮の開国を迫った。
日本の代表は交渉に成功し、日朝修好条規という条約を結んで、朝鮮を開国させた。

 こうして、日本は朝鮮に勢いを伸ばす足場を作った。
清は、これを黙ってみていることはできなかった。
こののち、朝鮮をはさんで、日本と清の間に、激しい争いが続いた。

 1894(明治27)年、朝鮮で甲午農民戦争が起こった。
重い税に苦しんでいた農民が東学という宗教の元に集まって、反乱を起こした。
 朝鮮政府は清に救いを求め、清の軍隊が出動した。
日本も対抗して兵を出した。
日本と清は農民の反乱をきっかけとして、互いに軍隊を送り込み、朝鮮での争いを、はっきりと打ち立てようと争ったのである。

 こうして、1894年8月1日、日本は宣戦布告をした。
日本軍は各地で清の軍を打ち破り、戦争は日本の勝利に終わった。

 清は降伏し1895年4月、日本と清は下関で講和条約を結んだ。そして、

 (1)清は朝鮮から引き下がり、朝鮮の独立を認めること。
 (2)遼東半島・台湾・澎湖島を日本の領土として、日本に渡すこと。
 (3)清は、2億テールの賠償金を日本に払うこと。
 (4)ヨーロッパの国々やアメリカが、清に押しつけている不平等条約を、日本と清との間に結んで、清と自由に貿易すること。

 を取り決めした。

 日本は戦争に勝った結果、清国に不平等条約を押しつけたが、戦争が始まるまで、日本はヨーロッパの国々やアメリカと不平等条約を結んでいた。
日本は1894年7月16日に調印の日英条約で、初めて平等条約を獲得した。
日本は、世界の強国への仲間入りしたのである。


 もし、僕が伊藤博文だったら、下関条約の時、更に多くの取り決めをしていたと思う。
例えば、「清国本土40%を日本に受け渡す。」。やっぱり領土は沢山あった方が良いので。   

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日清戦争について (豊田陽子)

 日清戦争は、1894(明治27)年から翌年にかけて、李氏朝鮮を巡って起こった日本と清との戦争です。

 この頃、列強のアジア侵略に対抗して朝鮮への進出を図る日本と、朝鮮を属国と見なしていた清は鋭く対立していました。
また、朝鮮国内では清に頼る勢力の《事大党》と、日本と結んで近代化を図ろうとする勢力の《独立党》とが対立していました。

 1894年、朝鮮で農民の反乱である東学の乱(甲午農民戦争)が起こり、朝鮮は清に援軍を求めました。
ところが、それを聞いた日本は居留民の保護を名目に出兵しました。2つの軍によって反乱は抑えられましたが、なかなか朝鮮から離れない清に対して日本が怒り、その場で戦争が始まりました。

 富国強兵を掲げていた日本は、近代的な軍備を持ち、朝鮮から満州(今の中国東北区)へと進出、各地で勝利を収めました。

 1895年に清は降伏し、下関で講和会議を開いて下関条約を結びました。

 この講和会議には、日本からは伊藤博文・陸奥宗光が、清からは李鴻章が出席しました。
内容は
@朝鮮の独立を認める
A清国は日本に台湾・遼東(リャオトン)半島の割譲をする
B賠償金として2億テール(約3億1000万円)を支払うなどでした。

 しかし、遼東半島はこの後、三国干渉によって返還することになります。

 この日清戦争の結果として、日本は国際的地位が向上し、大陸進出の足場を築きました。


 日本はあまりにも自分勝手なことをしていたと思います。
国内が充実したからといって外国を攻めるのはおかしいと思います。
たとえ外国に攻められても、富国強兵と掲げていてそれが達成していたのだから、自衛くらいは出来ると思います。
今の自衛隊も、《自衛》隊なのだから、国外に出て行くのは自衛隊ではないと思います。

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日清戦争の原因・経過・結果について (四元彩実)

 日清戦争は、1894(明治27)年から翌年にかけ,朝鮮(李氏朝鮮)をめぐっておこった日本と清(中国)との戦争です。

 欧米の国々のアジア侵略に対抗して朝鮮への進出をはかる日本と,朝鮮を属国とみなす清は激しく対立していました。
一方朝鮮国内では,清にたよる勢力(事大党)と,日本とむすんで近代化をはかろうとする勢力(独立党)とが対立していました。

1894年,朝鮮で農民の反乱である東学の乱(甲後農民戦争)がおこり,朝鮮が清に援軍をもとめると日本も居留民の保護を名目に出兵し,日清両軍の戦争がおこりました。
近代的な軍備をもつ日本軍は,朝鮮から満州に進出し,各地で勝利をおさめました。

1895(明治28)年,清は降伏し,下関で講和会議を開いて下関条約をむすびました。
これによって,清は朝鮮の独立をみとめ,遼東半島・台湾などを日本にゆずり,多額の賠償金をしはらうことになりました。

日清戦争の結果,日本は国際的地位が向上し,大陸進出の足場をきずきました。
日本は近代的な民族統一国家のもとで,強力な軍隊と「国民戦争」と言われたような挙国一致体制で戦ったのに対し,清国では派閥の争いが起こっており,日清戦争は李鴻章の北洋軍閥中心の戦争とされ,統一的な集中力は見られませんでした。

この戦争で,日本は帝国主義国となることによって東アジアの圧迫国となったのに対し,朝鮮・清国は日本を主とする列強の分割対象とされ,植民地・半植民地に転落する転換点となりました。
また日本軍国主義の本格的な東アジア侵略に対して,朝鮮と台湾の人民は植民地の危機に直面して立ち上がりましたが,これは東アジアにおける最初の本格的な抗日運動でした。
また日本は台湾を譲り受けた事で植民地領有国となり,清国からの賠償金で金本位制と日露戦争のための軍拡の実施などで産業革命を推進させました。


【感想・意見】

 鎖国をしていた日本が世界を見て焦りすぎて、無理をしてしまったので他の国から恨まれたりしてしまったのだと思います。
だから他の国のまねをしたりせずに日本は日本のやり方でやっていけばよかったのではないかと思いました。

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日清戦争の原因・経過・結果について (高橋大樹)

●原因
 まず、1894年5月に朝鮮は「甲午農民戦争(東学党の乱)」を鎮めるよう清(中国)へ依頼した。日本も、居留民保護などを名目に出兵した。
 その後日本は朝鮮内政共同改革というのを清国に提議した。しかし、拒否されてしまう。
 ちょうどその頃、日本はイギリスとの条約改正に成功した。
 日本は、7月20日に朝鮮政府に対して清軍の撤兵を要求する最後通牒を発令した。
 7月23日には日本軍が漢城(ソウル)を制圧した。その2日後に豊島沖で海戦したそうだ。これを、高陞号事件という。

●経過
 いろいろあったけれど8月1日にようやく宣戦布告をした。9月中旬には平壌を攻略してしまった。
10月8日閔妃(明成皇后)は三浦梧桜によって殺害された。これを閔妃(明成皇后)殺害事件という。
その後も日本軍は快進撃を続け、1895年3月に遼東半島全域を制圧した。

●結果
 この戦争による日本側の戦病死者は8,388人(1万人を越えるという説もある)、中国側の死者数は不明だが日本よりもはるかに多いと推測されている。
 4月17日、清と下関条約を結んだ。その最中に李鴻章が日本の暴漢に撃たれ顔に重傷を負うという事件も起こったそうだ。
 下関条約の内容は清が朝鮮の独立を認める・遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本へ譲る・ 賠償金2億両を日本に支払う・新しくに重慶など4つの港をひらく・日本人は各開市場、開港場において、製造業に従事できる・片務的最恵国待遇を日本に与えるというものだった。
 しかしこのうち、遼東半島については、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉により日本は放棄することになった。これを機会に日本はロシアと利害が衝突するようになって日露戦争が起こるきっかけになった。

●意見
 日清戦争は日本が勝手に始めた戦争だったということが分かった。しかも宣戦布告をする前に、相手を攻撃するというのは卑怯な手だと思う。
 あきらかに清のほうが人数も多そうなので日本は清に勝ったというのは結構すごい事だと思った。
 結局賠償金2億両もらっても、次の戦争の準備にお金を大量につぎ込むのはもったいないと思う。
当時の国家予算よりも多いのだから、国がしっかりと管理しておけば税金を減らしたりとかいろいろできたと思う。

●感想
日清戦争の事を少しは知っていたけれど、今回調べてみて今まで以上によく分かった。
これから太平洋戦争とか勉強するけれど機会だあったらじっくり調べてみようと思った。

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 日露戦争 

戦争中の人々の暮らし (神村英理)

○当時の人々の食生活

 日本人の食生活は明治時代になると急激に変化しました。
主な食べ物は、ご飯、味噌汁、漬物、サトイモでした。
牛肉を使った料理、缶詰、洋食など今日では当たり前のように食べているものも、食べ始めるようになったのは、この頃からです。


○女性労働者の1日

 製糸工場で働いている娘たちは、まゆから糸を取り出す仕事を行い、1日12時間から17時間も働きました。
工場では、糸の取り方が悪いと罰金を取られました。
疲れと不衛生な施設のため、結核などの病気にかかるものも多くいました。
それでも娘たちはためたお金をもって親の元へ帰る日を楽しみにしていました。




○感想

 日露戦争の時の人々の暮らしについてはあまり載っていなかった。
上のグラフを見ても、すごく大変な一日を送っていたのは分かったけど、他の戦争の時の人々の暮らしを見ると、これよりもっと過酷なものだったから、日露戦争は他の戦争に比べて、人々への負担は少なかったのかな、と思った。
でも、つらかったことには変わりはないと思う。私だったら無理だぁ・・・と思った。

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日露戦争 (藤澤早紀)

★テーマ@ 日露戦争の原因・経過・結果

●戦争が起きた原因

日清戦争で勝利を得た日本は清から遼東半島を手に入れました。
しかし!!それを黙っていなかったのがロシア、フランス、ドイツの三ヶ国。
「半島返してやれよ〜」と文句をつけてきます(これが噂の三国干渉)
この時点で日本はかなりなめられていました。
それもそのはずこの時点で日本がこの三国に勝てるはずもないと世間が思っていたでしょう。
でも日本は三国干渉があったときからロシアとの戦争を考えていました!
結局、日本は遼東半島を返す事になります・・・。
その後、なんとロシアが遼東半島を租借します。それに腹を立てた日本は問い詰めるとロシアは開き直って来たため日本も切れました。
それからは国交も回復の見込みは無く、日清戦争が終わって10年後、1904年2月10日。日露戦争が始まります。
また日本では軍備が増強され、新聞や雑誌の多くがロシアとの開戦を主張したため、日本はロシアに宣戦布告したのです!!

●戦争の経緯

日露戦争がはじまると翌年にかけて激しい戦争が満州の各地で繰り広げられました。日本軍は旅順(リュイシュン)という場所を占領し、奉天郊外の戦いで勝利した。海軍はロシアの艦隊を全滅させた!!

●戦争の結果

日本が勝利しました。
誰も日本が勝利するなんて考えていませんでした!!けして簡単な勝利ではないです。多くの犠牲がありました・・・。
一番は旅順です。155日をかけ多大な犠牲を出し何とか攻略。
日本海海戦も東郷大将の指揮のもとロシア最大の艦隊バルチック艦隊を何とか追い詰めました。
しかし、実際ロシアが負けたわけではありません。
ロシアが先に降伏してきたためそうなりましたが、そのまま続けていたら分からなかったでしょう。アメリカのセオルド・ルーズベルト大統領に仲を取り持ってもらって(ルーズベルト大統領は日本全権の小村寿太郎とおともだち)ポーツマス条約でなんとか解決したのです。

●自分の感想・意見

戦争を終えることが出来たのは外交の力があったから・・・と知り驚きました。
教科書に載ってない事もあったし!!
ロシアに圧勝だったのかと思っていたけど日本もそれなりに苦しかったんだなぁと思いました!!
だけど戦争の理由ってほんとメチャクチャだなって感じました。
まるで無駄な戦争のように思えるけど、この戦争で日本が帝国ロシアに勝ったことは世界に大きな衝撃を与えたんじゃないかと思います。
このことで日本はアジアで一番、もはや世界でトップクラスの軍事国家になったのでは!?!?


★テーマA 日露戦争時の人々の暮らし

 日本も日露戦争になってから凄くダメージを受けました。増税と物価の上昇によって生活は苦しくなっていきました。
そして多くの若い女性たちが長野県の製糸工場へ働きに行ったりしていました。1日12時間から17時間働くのが普通だったようです。
また糸の取り方が悪いと罰金を取られたりもしました。

●自分の意見・感想

 本当にこの頃の時代は大変だったんだなぁと思いました!!
1日12時間働くなんて凄すぎる・・・。
現代の人々と違って、昔は生きるための根性があったんだなととても感心しました。
でも糸の取り方が悪いからって罰金にするのは変だと思いました!!昔はクビにするっていう制度とかなかったのかな!?!?


★テーマB 相手国から見た戦争

ロシアでは日露戦争はタブーであった。
数十万人の犠牲をだしたロシア帝国軍の兵士たちは、遠く祖国を離れた激しい戦禍の中から多くの手紙を家族に送っていた。
そこには苦しい戦いの記録、つのる望郷の思い、戦争への疑問・・・などが赤裸々に語られていた。
当時、ロマノフ王朝の専制支配は揺らぎ、レーニンらの革命運動が蠢動(しゅんどう)していた。
皇帝ニコライ2世は、日本との勝利によって帝国の延命を目指していた。
しかし日露戦争での敗北を契機に兵士の反乱が起こり、ロシア帝国崩壊につながった。

●自分の意見・感想

 日本も大変だったけどロシアも色々大変だったんだなと思いました!!
ロシアが日本の事をよく思ってなかったのは日本人が白人ではなく、黄色人種だったからでしょうか!?
でもロシアも日本もこういう戦争を経験した事で今の良い状況に至っているのではないでしょうか。


★テーマC この戦争について外国の教科書ではどのように説明してあるのか??

 アジア諸国の日本に対する評価はとても良いようです!!
昔「アジアは欧米文明に達する資格なし」とされていた欧米諸国の偏見を日本は無効にしたからです。
同じアジアの一員である自分たちを勇気づけたなどと紹介されているようです。
この日露戦争は別の意味で「白人国家vs非白人国家」での非白人国家のはじめての勝利だったのです!!
そのため今まで「自分たちがどうやったって欧米列強には敵いっこない」と諦めていたアジア・アフリカ諸国をこの日露戦争によって独立という希望に導いたのでしょう。
また外国では、当時の日本の明治天皇はカリスマ的人物だと伝えられている!!

●自分の意見・感想

 この日露戦争は他の国に良い影響を与えてたんだなぁ・・・とすごく感心しました。
今まで白人に勝てるわけないと言う考えを覆したのだから凄いと思います。
やっぱり白人が絶対と言う考えはおかしいと思うし!!
そして、アジア・アフリカの諸国が独立できる!という希望を持てたのも良いことだと思います。
また、この当時日本をしきっていた明治天皇も凄い人だと思いました。


★テーマD その他 <なぜ日本はロシアに勝てたのか?>

 日露戦争においての日本側が勝利した大きな理由として日本・ロシアの教育課程の差が挙げられます。
日本は江戸時代に入ると、都市部において読み書きが不可欠になり、商家に働くとしたら算盤が必須条項となっていきました。
また、地方の農村部においても役人と農民のやりとりは文章でおこなわれていたので都市同様に読み書きは不可欠でありました。
そして、全く教育を受けないという貧しい家庭の人たちもいたが、それも明治に入って改善されていきます。
1900年には男子は75パーセント、女子は30パーセントぐらいの小学校就学率がありました。

 何故読み書きが必要なのか?
それは命令書を読み、報告書を作成させるための必要最低限のことだからです。
当時のヨーロッパでは複線型学校体系(二つの学校系統からなる制度)であり社会階級と結びついていました。
ヨーロッパには当時、大学と大学入学のための準備教育を行う貴族学校系統と庶民の教育要求の過程で生まれた小学校(民衆学校)などの庶民学校系統の二つです。
この二つは体系も違えば、上流階級語と民衆語といった具合に普段使われている言葉すら違ったのです。

●自分の意見・感想

 ロシアと日本の間にも教育の差があったと知りびっくりしました!!
教育をしたかしないかで・・・こんなにも違うなんて。
やはり勉強は必要不可欠なものです。
今の日本人で読み書きが出来ない人なんていないでしょう。
でもそれが当たり前だと思っているけれど他の国では教育が十分に出来ない国もあります!!だから勉強が出来る事をもっとありがたく思うべきだと思います。
日本人は読み書きが出来ない人がほとんどいないと言っても今は昔よりも学力が落ちているのです。
せっかく今まで学力をあげるため頑張ってきたのに、今の若い人達がその体制をくずしてしまったら意味がないですよね!!
ですから、もっと日本の教育について考えを見直すべきでしょう。
日本にとって頭が良いという利点は日本人の誇りなんですから。

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日露戦争 (金子彩美)

 日露戦争は1904年からはじまった日本とロシアの戦争です。
当時大々的な南下政策で朝鮮や満州を占領していたロシアに亡国の危機を感じた日本が奇襲攻撃をしたのが開戦の原因です。

戦争が終わったのは1905年で、終戦の大きな理由になったのは二つの会戦でした。

1つは奉天会戦です。
奉天会戦は会戦第一期から第三期があり、1905年2月26日から3月10日まで続きました。
この戦いは約32万の軍で圧倒的にロシアが有利でしたが、日本軍の先制攻撃により、ロシアの作戦が砕け、日本の本格的な攻撃に退却したので3月10日に日本が奉天を占領し日本軍が勝ちました。

もうひとつは日露戦争で最後の戦いの日本海海戦で、1905年5月27日から28日に日本海でおこりました。
この戦いも数ではロシアが有利でしたが、結果はロシア側は戦死者4545名、捕虜6106名でしたが、日本側の戦死者は116名という日本の完全勝利でした。
しかし、長期にわたる戦争は日本の国力を疲弊させ、また、ロシア国内においても革命運動が盛んになり戦争の継続が困難になりました。

そのためアメリカ大統領セオロドア・ローズベルトの斡旋によって日本全権小村寿太郎とロシア全権ヴィッテはアメリカのポーツマスで1905年9月5日、
@日本の朝鮮における優越権を認める
A日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する
Bロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満州支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する
Cロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権と南樺太と付属の諸島を日本へ譲渡する
Dロシアはカムチャッカと沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える
と認めさせました。

これがポーツマス条約で、これで日露戦争は終わりました。

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日露戦争 (船越 梢)

『日露戦争(1904〜1905)』

 当時、ロシアは冬になると大部分の港が凍ってしまい、船の出入りが困難になっていた。

だから東アジアに進出して、凍らない港「不凍港」を持ちロシア戦艦の機動性を高めようと考えていた。
そこでロシアは南下政策をとり、満州や韓国に目をつける様になっていったのです。
それを聞いた日本は、「これでは満州や韓国だけじゃなく、その内日本もやられてしまう。」と考えた。
また、イギリスもロシアの東アジア進出を阻止しようと考えていたため、ロシアに対抗できる国との同盟を求めていた。
そこで、1902年日本とイギリスの間に日英同盟が結ばれました。

三国干渉などにより、前々からロシアに敵対心を抱いていた日本は日英同盟も結び、バックにイギリスが付いたと言う事もあり、1904年ついに大国ロシアに宣戦布告した!!!

当時、ロシアの国家予算や兵力は日本の10倍もあり、戦ってもとても勝てる相手ではないと誰もが思ってました。
しかし日本の陸軍は次々と中国大陸に上陸し、ロシアとの戦いを繰り広げ、なんとか勝ち進んでいきました。
そして、1905年1月に遼東半島の旅順要塞という陣地を占領し、3月の奉天会戦という戦いに勝利しました。

けれども戦争が長引くにつれて、日本は兵士の消耗も増え、戦うためのお金もなくなってきました。
また一方ロシアでも国民の生活が苦しくなってきて各地で革命が起きてしまったため、両国とも戦争の長期化が困難になりました。

そこで、ロシアは戦争に勝つため、世界最強ともいわれている海軍「バルチック艦隊」を日本海に送りました。
そのバルチック艦隊を迎え撃ったのが東郷平八郎大将が率いる連合艦隊です。
ロシアは日本海軍の3倍近くの艦隊を保有していたにも関わらず、日本の巧みな戦術や他の艦隊の出撃がトルコなどに阻まれていた事もあり、負けてしまった。

そして、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介によって、日露講和会議が行われポーツマス条約が結ばれました。
この戦いで勝利した事により、日本は世界大国の仲間入りを果たしました。

ポーツマス条約により、北緯50度以南の樺太をもらったが賠償金は1円もなかった。
戦争中、重い税金に耐え、たくさんの兵士たちを犠牲にしてやっと勝利を手にしたというのに無賠償とはどういうことだ!と国民が怒り、大暴動をおこした。

その後、日本は朝鮮に圧力を加えて外交権を奪い、植民地化していきました。



私はなぜこの戦争を選んだのかというと、私は昔から日本と朝鮮が仲が悪いという事が気になっていました。
だんだん歴史を習っていくうちに、一番の原因はこの戦争なのではないだろうかと思ってきました。

この戦争に勝ったということは日本が世界大国の仲間入りを果たしたという、とても嬉しい事である反面、それによって日本が朝鮮を植民地化しはじめたという嫌な事でもあります。
でも最近は韓国で日本の物が発売されたりと日韓の仲が回復しつつあるんじゃないかなぁと思いました!

後、戦争で大勢の人々が犠牲になったのに賠償金がなかったため反乱が起きてしまったという事について、もし私が当時の人だったら絶対にその反乱に参加していたなぁと思いました。。。

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日露戦争 (北澤 宏)

日露戦争とは1904から1905年にかけておこった日本対ロシアの戦争の事です。当時ロシアは、南の朝鮮や満州を侵略しようとしていました。
そこで日本は、このままロシアを放っておくと日本も侵略されてしまうぞ、と思い宣戦布告をしました。
これが戦争の原因です。

日本の陸軍は中国大陸に上陸し、ロシアと次々と戦いを勝ち進んでいきました。鴎緑江の戦い、遼陽の会戦などなど。
そして、1905年に旅順要塞という固い陣地を落としました。
一方海軍は、バルチック艦隊と海戦をし、こちらはあっけなく勝ってしまった。

そして、日本は日露戦争に勝ち『ポーツマス条約』が結ばれ戦争は終わりました。

しかし、日本はロシアから賠償金を取れずに貧乏国のまんまでした。

この戦争について、日本が正しいとも言えなくもないかもしれません。
何故かというと、ロシアが日本を狙っていたかいないかは別として、日本は自分の国を防衛しようとして起こしたからです。
しかし、逆を言えば日本の早とちりかもしれません。この部分が戦争の難しいところだと思います。
だからって人殺しや侵略によって決めることは望ましくありません。
どうやって両国に平等になるか。この問題に対してはやはり、世界で話し合うべきだと思います。
話し合う事が意見が食い違ったりするので一番難しいのかもしれませんが、人間独特のコミュニケーションを利用するべきだと思います。
コミュニケーションするためには学問を学ばなければいけません。なので私は勉強します。
ジャンケンもなかなか解決に役立つかも

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日露戦争 (辻 僚太郎)

1.日露戦争の原因

 ロシアは十九世紀、極東に勢力を伸ばしてきていて、また朝鮮半島はそのころ独立した自前の国家を持っておらず、そこにロシアが来るということは日本にとって自国が攻められるという脅威でしかなかった。
そんな中、ロシアが義和団事件(1889年、シャントン省で反乱を起こし、翌年には北京に進出、各国の大使館などを襲撃した。これを鎮圧するために出動した連合軍の中にロシアの軍隊もあった。)を口実に満州に居座ったことは、陸路続きでロシアが朝鮮半島に進出して、結果日本がそのまま攻撃され植民地化されると当時の日本は、考えた。
 つまり、日本は「やられる前にやる」というような考え方で戦争を始めたと考えられる。


2.日露戦争の経過

 1904年(明治37年)2月10日、日本はロシアに対して宣戦布告をした。
 ロシアは旅順と大連を含めた遼東半島南端部分を丸ごと要塞化し、その根元にあたる幅4km足らずの金州地峡全体に堅固な要塞を築いていた。
ロシア軍は、この金州地峡を確保することで、黄海(旅順要塞の港が面する海)の制海権を日本に移らないようにしていた。
しかし、日本は苦戦しつつも海からの艦砲射撃に助けられ、5月16日に金州地方の要塞のひとつ南山要塞を陥落させ、一気に足を進めた。

 そして日本は、遼東半島の陸地への補給を容易にするため、黄海の制海権を得ようとしていた。
そのためには軍港旅順を陥落する必要があった。
当初は、旅順港の入り口の狭さ(大型戦艦が通れる幅約91m)を利用して古艦をそこに沈めて戦艦の出入りを封じ、黄海の制海権を手にする予定だったが、実際は要塞砲の威力が強く近づくことができなかった。
そのため、日本は要塞砲の射程外で封鎖をし続けるしかなかった。
 日本陸軍は、遼陽会戦、沙河開戦と辛うじて勝ってきたが、旅順では苦戦していた。
 それまで日本軍は旅順攻撃で多くの戦死者を出していた。
 特に203高地(旅順要塞を見下ろせる絶好の攻撃場所としてここを攻めていた)の攻略に死傷者が多かったのは参謀長伊地知の無能のせいだと言われていた。
海軍は203高地を攻めてくれと様々な方法で司令官に頼んだが、伊地知は陸軍に海軍の干渉は受けない、として突っぱねていた。
 そこで、関東軍総参謀長の児玉源太郎がついに旅順に乗り込み、当時の司令官乃木に変わって指揮をとり、ついに旅順要塞を攻略した。
 日本軍は203高地に見張りを立て、陸軍砲、海軍の艦砲射撃で、旅順港内の戦艦を砲撃し全滅させた。
旅順要塞のロシア軍は1905年1月2日降伏した。
 また、バルチック艦隊と日本軍との日本海海戦は、歴史上稀に見る圧倒的勝利だった。

 そのまま日本軍は奉天(中国東北地方、遼寧省の地名)まで進軍するも、広大なロシアをそのまま進軍できるほどの武器・弾薬等の補給が続かず、そこで進軍を断念した。


3.日露戦争の結果

 ポーツマス条約(日露講和条約)を、アメリカの斡旋によって締結した。
その内容は、以下のものである。

・日本の朝鮮における優越権を認める
・日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する
・ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する
・ロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満州支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ・譲渡する
・ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する
・ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える

 賠償金の支払いは行われなかったため、賠償金による国内の発達、生活の向上を期待していた国民は不満を持ち、日比谷公園焼き討ち事件などの暴動も発生した。


●感想・意見

 日露戦争は実際のところ講和しているのだから、日本の勝利ではないにせよ、大国ロシアと30年ほど前にやっと開国した日本という小国が、対等に渡り合ったことで世界から認められるようになった、という点はとてもその後の日本の成長に役に立っているとは思う。
しかし、この戦いで自国の力を過信し、国力からして勝負にもならないアメリカに戦争を仕掛けてしまったことは、ある意味でこの戦争の結果が逆に自らの首を絞める結果になってしまったと思う。
 とはいえこの戦争を開始したことについては致し方なかったと思う。
 この時代の戦争の原因は、授業でもやったが軍部の独走が原因だったのではないか。
アメリカに戦争を仕掛けると軍部が言ったときも、日本政府は反対方針だった。
 日本が結果的に原爆を落とされたりしたのも、日本政府が軍部を管理し切れなかったことが原因だ。
この時代の人々はある意味死ななくても良かったのに死ぬ結果になってしまい、不運だったと思う。

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日露戦争 (山本稜子)

★テーマ@ 

●原因:当時のロシアは、大々的な南下を占領する政策をとり、その政策は満州や朝鮮にまで伸びてきてきていた。
 満州や朝鮮にまで手が伸びているという事は、日本がロシアに占領されるのは時間の問題だ。
そこで、日本の首脳陣、桂太郎・山県有朋・伊藤博文などは諸処の経緯がありながらも、1904年(明治37年)に大国ロシアに宣戦布告した。

●経過:陸軍は続々と中国大陸に上陸し、ロシアと野戦を繰り広げた。
 鴎緑江の戦いや、遼陽の会戦などなんとか順調に勝ち進んでいった。
1905年(明治38年)には旅順要塞という強固な陣地を陥落させ、日露戦争における正念場の1つ、黒溝台の戦いにも辛勝し、奉天を占領したことで陸軍の仕事は一段落ついた。
そこで世界世論は「日本の勝利」を報じ、当時のアメリカ大統領セアドア・ルーズベルトが日露両国を講和の席に着かせようとしたが、ロシア側が拒否。
ロシア側の望みは当時の最大艦隊と言われるバルッチ艦隊、つまり海戦にかけられていた。
そして、俗に言う「日本海海戦」という海戦が始まった。
あっけなく日本側が勝利し、ロシア側は講和の席に着いた。

●結果:日露両国の講和で「ポーツマス条約」が締結され、日露戦争が終結した。


→感想・意見:日本の何倍もの面積をもつ国ロシアに日本が勝ったなんて凄いと思った。
 ロシアは陸戦の時点で正直に講和の席に着いていれば、結果が同じなら海戦で死人を増やさなくて良かったのになと思う。


★テーマA

●日露戦争の時代を生きた人々の暮らし:
 多くに日本国民は戦争に協力したが、増税と物価の上昇によって生活は苦しかった。
兵器や弾薬は不足し、兵力も財力も乏しくなり戦争を続ける事がきつきなっていった。
また、日露戦争が始まるとともに、司令官乃木希典率いる第三軍は、戦いに勝ち進むごとにロシア軍の機関銃などで多くの死者を出し、翌年1月の占領までに6万人が死傷した。
 大阪府堺の伝統ある菓子屋に生まれた与謝の野晶子は雑誌「明星」の1904年9月号に日露戦争への詩を発表した。

→感想・意見:
 戦争で日本がロシアに勝ったという結果だけであまり大変な思いをしたというイメージは無かったけれど、その戦争裏で国民は辛い思いをして頑張っていたという事を改めて知って感心した。


★テーマB

●ロシアにとって日露戦争はどのような戦争だったか:
 ポーツマス条約でロシアは韓国に対する日本の支配権を認め、ロシア領であった樺太の南半分を日本の領土にされたりと明らかに損失な戦争になった。

→感想・意見:
 日英同盟で日本とロシアの仲が深まったところでロシアは日本と戦争する気は無かったかもしれないのに、日本は焦って宣戦布告をしてしまって、ロシアにとっては迷惑な戦争だったと思う。


★テーマC

外国の教科書は調べられませんでした。

→感想・意見:日露戦争については、外国ではあまり大きな事としてとらえられていないんだなと思った。


★テーマD   その他:

 1905年1月22日、ロシアの首都ペテルブルグ(今のサンクトペテルブルグ)の労働者が、戦争での生活の苦しさを訴えた請願書を持って宮殿へ行進すると、軍隊が突然発砲し、雪の敷き詰められた広場を血でそめた。
この事件は「血の日曜日」と呼ばれている。これは第一ロシア革命のきっかけとなった。

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日露戦争 (佐藤恵亮)

★日露戦争の原因

日清戦争で勝利を得た日本は清から遼東半島を手に入れました!
しかし、それを黙っていなかったのがロシア、フランス、ドイツの三ヶ国。
「半島返してやれよ〜」と文句をつけてきます、この時点で日本かなりなめられています。
それもそのはずこの時点で日本がこの三国に勝てるはずもないと世間が思っていたでしょう。
しかし日本は三国干渉があったときからロシアとの戦争を考えていました。
例えば八甲田山。ロシアでの戦争を意識して雪山での訓練を実施しました。
結局、日本は遼東半島を返すわけですが・・・その後、なんとロシアが遼東半島を租借します!
それに腹を立てた日本は問い詰めるとロシアは開き直り「こっちにも急な話だったので地図がないのだけど貸してくれる?」と日本に言って来たら日本もキれます。
それから国交は回復の見込みも無かった。
よって、日清戦争が終わって10年後、1904年2月10日。日露戦争が始まります。


★日露戦争の結果

結果は日本の勝利です!
もちろんと言いたいところですが当時は全世界が驚いたでしょう。
誰も日本が勝利するなんて考えていなかったんですから。
しかし、決して簡単な勝利ではないです。多くの犠牲がありました・・。
やはり一番は旅順ですね。155日をかけ多大な犠牲を出し何とか攻略。
日本海海戦も東郷大将の指揮のもとロシア最大の艦隊バルチック艦隊を何とか追い詰めました。
日露戦争は日本にとってかなりの綱渡りな戦争だったのです。
しかし、実際ロシアが負けたわけではありません。
ロシアが先に降伏してきたためそうなりましたが、そのまま続けていたら分かりません。
結局戦争を終えることが出来たのは外交の力で。アメリカのセオルド・ルーズベルト大統領に仲を取り持ってもらって(ルーズベルト大統領は日本全権の小村寿太郎と友達関係にある)ポーツマス条約でなんとか解決。
この戦争で日本が得たものは旅順と大連それに、樺太の半分ばかしで賠償金は0円。日本国民はずいぶん怒ったと思うけど国としてはこれがせいいっぱい、ここで終わらせないと日本に不利になるばかりだと思ったから…

●感想

まるで無駄な戦争のように思えるけど、この戦争で日本が帝国ロシアに勝ったことは世界に大きな衝撃だったと思いました。

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日露戦争 (鈴木 優)

●開戦までの経緯

 日清戦争後の三国干渉以来日本とロシアの対立が深まり、義和団事件の後ロシアが満州から兵を引き上げなかったので、日本のロシアへ対する不満は高まっていった。
1902年にイギリスと日英同盟を結ぶと両国の対立は決定的になった。また、当時ロシアは南下政策をとり、それは朝鮮まで伸びていた。「このままではロシアに占領されてしまう」と危機感を感じた日本は1904年ロシアに宣戦布告した。

●戦争の経過

 開戦と同時に日本陸軍は仁川に上陸し、早々と朝鮮を制圧。4月には満州に進撃した。5月には大連を占領し、8月末からの戦闘の末、遼陽を占領した。
8月10日の黄海の戦争では日本海軍が203高地を占領したが、これらの戦争では6万人近い死傷者を出した。
その後、秦点の海戦で勝利をおさめた。

また、海軍ではロシアがヨーロッパからバルチック艦隊を派遣したが日本に日本海海戦でやぶれた。
戦争は日本に有利に進むように見えたが、日本には兵力、物資、財力が不足していた。
ロシアでは専制政治に反対する革命運動が起こり、両国とも戦争継続が困難になっていった。


●結果

 ロシアが日本海海戦に負けたため、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが日露両国を講和の席につかせた。
これをポーツマス条約といい、主な内容は韓国における日本の政治、軍事、経済的優越権の承認やロシアの遼東半島の問題などであった。
この戦争により日本は国際的地位を高め、世界にその名を知らしめることになった。


●感想・意見

 今のイラクを見てわかるように戦争にはとても大きなリスクがある。
また、日本国内で反対意見も多かっただろう。その中で戦争を決断したということは、よほどロシアに対する危機感が大きかったのだと思う。
日本はついこの前まで丁髷だったのにも関わらず大国ロシアに無謀にも戦争を仕掛け勝ってしまった。
もし負けていたら、今自分達はロシア語を話しているかもしれない、そう考えると戦争に勝って良かったと思う反面、戦争がもたらす不幸の大きさを感じる。

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日露戦争 (原田理紗子)

★テーマ@ 原因・経過・結果

●原因
 日本は日清戦争に勝利し、翌年には、日本に有利な下関条約を結びました。
 しかし、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉によってリャオトン半島を返還することになってしまいました。
世論は「ロシアとの戦争も辞さず」との意見が多かったようです。
さらに、ロシアはリャオトン半島の旅順に太平洋艦隊を配置しました。
これにより、日本では対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆→「目的を遂げるために自ら試練を課し、厳しい苦労や努力をすること」というスローガンを掲げ、重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていきました。

 当時ロシアは大々的に南下政策をとり、満州や朝鮮にまで手を伸ばしていきていました。
「このままでは、日本はロシアに占領されてしまう!!」と、1904年。明治政府は大国ロシアに宣戦布告をしました。
 この戦争によって、日清戦争のように賠償金を得ようとしていました。
そして、自分たちの生活が良くなることを願っていたのです。


●経過
 まず、陸軍は続々と中国大陸に上陸し、ロシアと地上戦を繰り広げ、接戦を順調に勝ち進んでいきました。
1905年には、旅順要塞という強固な陣地を陥落させ、その後も黒溝台の戦いにも辛勝し、奉天を占領しました。
 これによって、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが講和を結ぼうとしましたが、ロシアの望みはバルチック艦隊による海戦にかかっていたのでこの時点ではロシア側は講和を拒否しました。
 日本側もバルチック艦隊との海戦にむけて戦闘準備を整え、「皇国の興廃この一線にあり 各自鋭意努力せよ。」と訓辞を与えました。
 このバルチック艦隊との海戦は日本海海戦といわれ、あっけなく日本の勝利におわりました。
これの海戦によってロシアは講和の席に着かなくてはならなくなりました。
こうして、日露両国の講和で「ポーツマス条約」が締結され、日露戦争は終結することになります。


●結果
・良かったこと
 ロシアの南下に歯止めをかけることができ、日露協約の成立によって相互の勢力範囲がはっきりしました。
また、朝鮮半島の権利や利益を確保できた上に、新たに満州(→中国東北部)にも進出することもできました。
 そして大国ロシアに勝利したことによって、国際的にも日本の評価をあげることになり、不平等条約の改正にも影響を与えました。

・悪かったこと
 講和条約では、日清戦争のように賠償金を得ることができなかったため、国民の期待にこたえるものではありませんでした。
 また、日露戦争によってさらに日本は大きな野心を抱いた帝国主義へとむかっていくことになりました。
この後の日中戦争・太平洋戦争にも日露戦争は影響を与えたのです。

・実態は・・・
 →世界の強国の脅威に怯えつつ、まだ貧しかった日本が国民一丸となって戦争での勝利を目指し、なんとか優勢勝ちした。 という感じです。。


〜テーマ@の感想〜
 鎖国をして日本は近代的で進んだ国になっていったとおもいますが、日清・日露・日中・太平洋戦争といくつも戦争をする国になってしまったと思います。
日本がお手本にした国が戦争をしていたからかもしれないけれど、もっと平和に近代的な国になる方法はなかったのかなぁ?と思いました。


★テーマA 日露戦争時代を生きた人々の暮らしはどうだったか

 多くの日本国民は戦争に協力しましたが、増税や物価の上昇によって生活はどんどん苦しくなっていきました。
やがて、兵器・弾薬が不足し戦争を続けるのが困難になったため講和を結び、日露戦争は終わりましたが、ポーツマス条約は国民の期待にこたえるものではありませんでした。

 ポーツマス条約の主な内容は
 @ ロシアは韓国に対する日本の指導・保護・監理を承認する。
 A 旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道とその付属の利権を日本に譲渡する。
 B 北緯50度以南の樺太と付属の諸島を日本に譲与する。
 C 沿海州とカムチャッツカの漁業権を日本国に許与する。
 といったもので、日清戦争の9倍の戦費を使い、46万人の死傷者をだしたにもかかわらず賠償金はありませんでした。

 そして、ポーツマス条約の内容に不満をもった国民は、条約に反対する国民大会を開きました。
一部の民衆は暴動を起こし、内相官邸・警察署・交番・市街電車を襲撃するまでに発展し、軍隊が出勤するまでになりました。
  →日比谷公園焼き打ち事件が有名

 それほど国民は賠償金のために苦しい生活をおくっていた。ということでしょうか。
また、生活は苦しくても、西洋にならって生活・文化・風俗を改めようとする文明開化が地方の農村にまで広がってきていました。


★テーマB 相手国のロシアにとってはどんな戦争だったのか

 日露戦争は相手国のロシアにとっても苦しい戦いでした。
 1905年には、首都のサンクトペテルブルグで血の日曜日事件(→生活苦をうったえた請願書をもって宮殿に行進した労働者が軍隊に発砲された事件)が起こり、これがきっかけで専制政治に反対する革命運動がおきました。
 この革命によってロシアは戦争をつづけることが難しくなりアメリカが提案した講和を受け入れ、極東への南下を断念することになりました。

 また、日露戦争がきっかけで結ばれた日露協約・英露協商は後の第一次世界戦の引き金にもなってしまいました。
日露戦争はロシアにとても大きい影響を与えたようです。


〜テーマBの観想〜

 日本の国民だって苦しい生活をしていたのだから、ロシアのように革命までとはいかなくても、もっと大きな戦争反対運動がおきていてもおかしくないのではないかと思いました。
ロシアは日本より軍隊の数も兵器もたくさんあったのに、どうして負けてしまったのでしょうか?


★テーマC 外国の教科書と日本の教科書の比較

 課題では外国の教科書と比較することになっていますが、どうしても資料を探しあてられませんでした。。すいません。

●日本書籍(私が使っている教科書)では、

 日露戦争 1904年、(明治37年)ついに日本はロシアに宣戦を布告し、日露戦争を始めた。翌年にかけて激しい戦闘が満州の各地で繰り広げられた。
日本軍は旅順を占領し、奉天郊外の戦いで勝利した。海軍はロシアの艦隊を全滅させた。

 戦争と国民 やがて日本の兵器・弾薬は不足し、兵力も財力も乏しくなり、戦争を続けることは困難になった。そこで日本は、アメリカに講和の仲立ちをたのんだ。

●東京書籍では、

 1903年(明治37年)、ついに日露戦争が始まった。日本軍は苦戦を重ねながらも戦局を有利に進めた。しかし、日本の戦力は限界に達し、ロシアでは革命運動がおこるなど、両国とも戦争を続けることはむずかしくなった。1905年、日本を支持してきたアメリカの斡旋で講和会議が開かれ、ポーツマス条約が結ばれた。

・・・・・となっています。


 日本書籍の教科書では、「勝利した。」とあります。たしかに日本はこの戦いに勝利しました。
 また、「ロシアの艦隊を全滅させた。」ともあり、確かに日本は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させました。

 でも、東京書籍の教科書では、「苦戦を重ねながらも戦局を有利に進めた。」という書き方にとどまっています。

・・同じ日本の教科書でも、同じ戦争を違う価値観でかいてあるような感じがします。
外国の教科書ともなれば、もっと違う書き方をしているでしょう。


〜テーマCの感想〜
 教科書を作るのってむずかしそうだぁとおもいました。
やっぱり書く人によってとらえかたが違うのは仕方ないことだし、学校で使う本だから教科書ごとに内容が違いすぎてもいけないし・・・
他の国がからむことだともっと複雑になると思います。
戦争のこととかになると、いくら昔のことでも問題がたくさん出てくると思います。
教科書はどうしていろんな出版社から出されているんでしょうか?


★テーマD 他国から見た日露戦争

 日露戦争は他国にも、様々な影響を与えています。
 まず世界中が注目したことは、白色人種と有色人種の戦争で初めて有色人種である日本が勝利したことです。
ロシアは当時でも列強第1の軍事国家で、開国してから半世紀しか経っていない小国日本の勝利を予想する人はほとんどいませんでした。

 日本の勝利はインドやトルコなどアジア諸国で大騒ぎになりました。
当時のインド首相は「長年、ヨーロッパに苦しめられてきた我々アジアの国々にも、やればできるという希望の光が差してきた気がして、子供心にも熱狂した」というコメントを残しています。

 逆に西洋諸国は日本の勝利に愕然としました。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は「我々にとってアジアが脅威となった初めての瞬間だった。そして、我々が本当に恐れるのは、日本そのものではなく日本に動かされる中国、アジアだ」と語ったそうです。

 日露戦争の勝利は近代日本の栄光のシンボルとまり、陸軍の乃木大将と海軍の東郷元帥は、国民的英雄となり、神社にまつられました。

 フィンランドでは、今でも東郷平八郎を讃えてトウゴービールというビールを販売しているそうです。

 トルコでは、日本が勝利した時、人々は狂喜して息子や孫に「トーゴー」「ノギ」と名づけたりしたそうです。また、町には同様に「トーゴー通り」「ノギ通り」ができたそうです。


〜テーマDの感想〜

 勝つ可能性がほとんどないロシアに対して宣戦布告した日本は、欧米諸国から見たら結構バカな国だったんじゃないかと思いました。(笑) 
でも、支配される側にいたアジア諸国に勇気を与えた点では、日露戦争も少しは良い点があったのかな?と思いました。

  END

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日露戦争 (栗原 悠)

日露戦争(1904)

●原因

 日清戦争によって日本に敗れ、「眠れる獅子」から「死せる豚」となった清国は次々と列強諸国に分割されていった。
中でもロシアは大軍を送り、多くの地を所有地にしていった。
1900年には義和団が一斉に立ち上がったが、ロシアは軍隊を各地に進駐させたまま撤兵をしなかった。
1903年、小村寿太郎とローゼンの間で直接交渉が始まった。
日本は、ロシアは満州、日本は朝鮮に権益を持ち、互いに犯しあわないという提案をした。
しかし、ロシアは朝鮮の39度線を中立地帯にしたいと言ってきた。
そして軍隊を南満州から朝鮮へと向けてきたのだ。
追い込まれた日本は1904年2月8日、仁川港・旅順港にいるロシア艦隊を奇襲した。
翌日、ロシアが日本に対し宣戦布告。
さらに翌日、日本が宣戦布告。そして開戦!!


●経過

 日本はアメリカ・イギリスの経済支援を得て、有利に戦局を展開した。
そして、1905年1月、旅順要塞を陥落させ、3月の奉天会戦に辛勝。
ついに5月には日本海海戦をむかえた。

27日、ロシアのバルチック艦隊が対馬海峡に現れた。
哨戒艦「信濃丸」からの報告により、東郷司令長官は旗艦「三笠」を率い鎮海湾から出撃した。
両軍の距離が8000mになった時、敵が砲撃を始めた。
しかし、訓練不足に加えて荒波でなかなか命中しなかった。
6500mまで接近した時、長官は撃ちはじめを命じた。
猛訓練によって鍛えられた砲撃で敵は戦列を乱し、右往左往。始まって30分たったころには勝敗が明らかになっていたという。
その後も激しい戦闘は続いた。
次々と敵艦は沈没、他の敵艦は避難しようとしたが包囲され、撃沈又は降伏。
こうして2日間にわたる決戦は終了した。


●結果

 両国とも国力が疲弊して戦争の継続が困難になったころ、ローズベルトの斡旋で小村寿太郎とヴィッテがポーツマス条約を締結させた。
だが日本国内では賠償金が全くとれなかったこの条約に不満を募らせ、日比谷焼き討ち事件などが起こった。
日本はこの勝利によって、「関税自主権」を回復することができた。


●感想

 この戦争はロシアの傲慢な態度から始まった。
多分ロシアは日本が戦争を仕掛けられるはずがないとでも思って日本を甘く見てたと思う。
だから、日本が勝ってうれしいとか思ったりしたけど、やっぱり戦争は残酷だし100年も前にあったようなことが今まだ続いてることを悲しく思う。
どんどん人が死んでゆく現状を何とかしたいと思うけど難しいことで、戦争じゃなく他の問題で死んでゆく人も大勢いるわけで、完全に解決することは無理なんじゃないかとも思ったりする。
まだなんにもできないけれどいつか人の役にたちたい。

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日露戦争 (津山 駿)

日露戦争は1904年から1905年にかけて当時の軍事大国ロシアと善戦し、日本という国を世界に知らしめ、国際的地位を高めた戦争です。

当時、ロシアは大々的な南下政策をとり、その手は満州、朝鮮にまで伸びてきました。
満州や朝鮮にまで手が伸びればいつかそれは日本にまで伸びてしまいます。
このままでは日本はロシアに占領されてしまう。
そう思った日本の首脳陣、桂太郎、山県有朋、伊藤博文などは諸処の経緯がありながらも、1904年(明治37年)大国ロシアに宣戦布告しました。

陸軍は続々と中国大陸に上陸し、ロシアと野戦を繰り広げました。
鴨緑江の戦いあり、遼陽の会戦あり  厳しい戦いだったにしても順調に勝ち進んで行きました。

1905年(明治38年)には旅順要塞という強固な陣地を陥落させ、日露戦争における正念場の一つ、黒溝台の戦いにも辛勝し、奉天を占領したこと
で、陸軍の仕事は一段落つきました。

 世界世論は「日本の勝利」を報じ、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが日露両国を講和の席に着かせようとしたが、ロシア側が拒否。
ロシア側の望みは、当時の最大艦隊と言われる、バルチック艦隊、つまり海戦にかけられていたのです。

その事を察した日本側は、バルチック艦隊に対する戦闘準備をし、「皇国の興廃この一戦にあり 各自鋭意努力せよ」との訓辞をあたえ、この一戦に全てをかけました。

「日本海海戦」と言われるこの海戦は、あっけなく日本側が勝利しました。

これで、ロシア側が意地を張る要素がなくなり、講和の席に着かざるを得ませんでした。
こうして、日露両国の講和で「ポーツマス条約」が締結され、日露戦争が終結しました。

この戦争により、日本は国際的地位を高め、世界的にその名を知らしめることになったのです。
しかし、日本国は賠償金をとれず貧乏国のままでした。

僕は当時の国民は自分達の暮らしが良くなると思ってつらい戦争を乗り切ってきたと思うので、賠償金がとれないとわかった時にはとても悔しかったと思います。
僕は戦争にいくら勝ったといっていてもその影には家族や友達が戦争のせいで亡くなってしまった人もいると思うので、戦争はおこらないほうがいいと思いました。

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日露戦争 (前沢 緑)

 ロシアの南下が自国の中国権益と衝突すると考えたイギリスは1902年、長年守ってきた「栄光ある孤立」を捨て、同盟先として直接的にロシアの脅威にさらされていた日本を選択した(日英同盟)。

この同盟で国論も定まり、積極的な戦争準備を開始。

日本側陸海両軍による奇襲攻撃に始まり、旅順功囲戦、奉天会戦、日本海海戦などの結果、日本側の優勢が確定。

一方ロシア側は相次ぐ緒戦の敗北、それを含めた帝政に対する民衆の不満による政情不安を抱えて効果的な反撃ができず、アメリカの仲介の下1905年10月に締結されたポーツマス条約のより正式に終戦。

この戦争でロシアに勝利した事は列強諸国の日本に対する評価を高め、不平等条約改正の達成に大きく寄与したが、勝利を得た事によりかつて同じ境遇だったアジア諸国への思いやりが減り、また大陸に権益を得たことで大陸側に深く関わらなくなり、後の日中戦争や太平洋戦争の一因を作ってしまった。

それを思うと、ちょっとした判断の違いで大きな事へ発展してしまうのだから、日露戦争をする時に外国に流されず自分達だけの意見をまとめ行動に移せていれば大きな犠牲で無かったものかもしれないと思った。

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日露戦争 (小野好樹)

1.原因

 ロシアは、義和団事件をおさめるために日本などとともに中国へ軍隊を送り出した。
しかし、義和団事件が収まった後他の国は中国から撤退したが、ロシアは残り、朝鮮にも支配力を強めるために南下政策をとった。
日本も朝鮮の支配を目指していたため、対立が激しくなった。

 その頃イギリスは、ロシアの東アジア進出に対抗する同盟国を求めていた。そこで日本とイギリスは日英同盟を結んだ。
この事によって日本とロシアの対立はさらに深まり、ついに1904年2月、日本がロシア艦隊を攻撃し、その後宣戦布告して日露戦争は始まった。


2.経過

 当時ロシアは、国家予算と兵力が日本の10倍もあった。
そんな苦しい戦いの中、日本は遼東半島にある、旅順を占領し、奉天校外で起こった奉天会戦に勝利した。
しかし、戦争が長引くにつれ、日本は兵員の消耗も増え、戦費も減った。
そのため、戦費調達のために税金が上がったりして国民の生活が苦しくなった。同様にロシアも国民の生活が苦しくなり、民衆が革命運動をしたため、戦争の長期化が困難になった。

 そこでロシアは、決着をつけるために、世界最強といわれていたバルチック艦隊を7ヵ月もかけて日本に向かわせた。
そして1905年5月27日、バルチック艦隊が日本海に現れ、日本海海戦が始まった。
それらを迎え撃ったのは、日本海軍の、東郷平八郎大将が率いる連合艦隊だった。
連合艦隊は、バルチック艦隊に比べて、軍艦の大砲の数が少なく、弾薬も十分ではなかった。
しかし日本海軍は、巧みな戦術と、もう訓練による高い大砲の命中率で、見事バルチック艦隊を全滅させた。


3.結果

 こうしてロシアは日本海海戦に負けたことにより、講和を受け入れることになった。
講和会議はアメリカのポーツマスで行われ、ポーツマス条約が結ばれた。
この日本の勝利は、植民地支配を受けていたアジアの国々に希望を与えた。
しかし、日本国内では、多くの兵力や戦費をかけたのにも関わらず、賠償金が与えられず、
ポーツマス条約に失望した国民が、日比谷焼き討ち事件などの暴動を起こした。
欧米の列強は日本に対する警戒を高めた。

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日露戦争 (小林亮平)

 ロシア・フランス・ドイツで行った三国干渉によりリャオトン半島を清に返すように要求され、日本はこれを受け入れ、リャオトン半島を返還した。

 1900年、ロシアは中国で発生した義和団事変の混乱収拾を名目に満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。ロシアは清朝を脅迫し、満州の植民地化を既定事実化しようとしたが、英米日がこれに抗議、ロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行おうとせず、むしろ駐留軍の増強を図った。
ロシアの南下が自国の中国権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年長年守ってきた「栄光ある孤立(The Splendid Isolation)」を捨て、同盟先として、直接的にロシアの脅威にさらされていた日本を選択した(日英同盟)。
この間日本は対露主戦派と和平派の衝突が続いていたが、この同盟によって国論も定まり、積極的な戦争準備を開始した。
1904年2月8日、ニコライ2世は、アレクセーエフに対し日本との戦闘行為を一任。事実上日本との戦争を決断した。

 1904年,日露戦争が始まり,日本は苦戦しながらも陸軍は奉天(今の瀋陽・シェンヤン)の会戦で勝利をおさめ,海軍は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊をやぶった。
しかし,日本は兵力・物資・財力が不足し,ロシアでは専制政治に反対する革命運動がおこり,両国とも戦争継続が困難になった。
1905年アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトの仲介でアメリカ東北部のポーツマスで講和会議が開かれ,講和条約(ポーツマス条約)がむすばれた。
その結果,ロシアの南下はおさえられ,日本は朝鮮に対する優越権,旅順(リュイシュン)・大連など遼東(リアトン)半島の半島南部の租借権や東清鉄道の一部をゆずりうけるとともに,樺太(サハリン)の南半分を手に入れた。
しかし,賠償金はえられず,この講和条約に不満の国民は,日比谷焼き打ち事件などをおこした。


●感想

 授業でも触れたようにロシアが撤退しなかったことが主な原因だったけど日本もそこで戦争することは少し疑問だった。
この機会に日露戦争を詳しく調べられて面白かった。
 今度、時間があれば日清戦争も調べてみたくなった。

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日露戦争について (長谷川秀喜)

●帝国主義の世界

自国の、大企業の活動や利益を守るため、軍事力を高め、それぞれの国は互いに対立しながらアジアやアフリカの各地に侵略を進めて植民地を広げた。


●北清事変(義和団事変)

山東省では義和団を中心に「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を叫ぶ運動が起こった。
これを清国の政府がこれをあおったため運動が各地に広まり、キリスト教会が襲われたり、外国人宣教師が殺されたり、鉄道が破壊されたりした。

1990年には、北京でドイツ公使や日本の公使館記生が殺され、列国公使館が清国兵や国民が包囲した。
日本はアメリカ・イギリス・ロシア・フランスなどの国々とともに軍隊を派遣し、義和団の乱を押さえつけ、外交官や居留民他を助けた。

1901年には北京議定書が調印された。
そして清国は列国に莫大な賠償金を支払い北京などの場所に列国の守備兵を置かせることを認めた。


●日英同盟

ロシアは義和団事件の後朝鮮も支配下に置こうとした。
一方日本も朝鮮を支配下に置こうとしていた。
またイギリスはロシアの進出をよく思ってなかった。
そのため、中国・朝鮮をめぐって利害の一致する両国がむすんだ。

ロシアの東アジア進出が両国に不安をあたえ,イギリスは「光栄ある孤立」をすてて日本と手をにぎった。
どちらか一方が1国と開戦する場合,他は中立を,2国以上との場合は共同でたたかうことをきめた。


●日露戦争

1904年,日露戦争が始まり,日本は苦戦しながらも陸軍は奉天(今の瀋陽・シェンヤン)の会戦で勝利をおさめ,海軍は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊をやぶった。
しかし,日本は兵力・物資・財力が不足し,ロシアでは専制政治に反対する革命運動がおこり,両国とも戦争継続が困難になった。

1905年アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトの仲介でアメリカ東北部のポーツマスで講和会議が開かれ,講和条約(ポーツマス条約)がむすばれた。

その結果,ロシアの南下はおさえられ,日本は朝鮮に対する優越権,旅順(リュイシュン)・大連など遼東(リアトン)半島の半島南部の租借権や東清鉄道の一部をゆずりうけるとともに,樺太(サハリン)の南半分を手に入れた。
しかし,賠償金はえられず,この講和条約に不満の国民は,日比谷焼き打ち事件などをおこした。

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日露戦争について (井田侑甫)


 ロシアが満州より南に攻めてくる時に、朝鮮半島を占領してしまったら日本とロシアをへだてるものは日本海しかなく、いつ日本まで侵略しにくるかわからなくとても危険な状況になってしまいます。
どうしてもその状況になるのだけは避けたかった日本は朝鮮半島を植民地化して日本とロシアのあいだにかべを造りたかったのです。

それと朝鮮半島の人々を安い賃金で大量にやとって炭鉱などの危険な仕事をやらせたかったのです。

 そこで当時の日本の外務大臣小村寿太郎はロシアのウィッテ蔵相に「満州はロシアに譲るから韓国を日本に保護させてほしい」という満韓交換論を提示したがウィッテは「満州をどうするかはロシアが決めるし、それによって韓国を日本の自由にさせるわけにはいかない」と、拒否されてしまった。

 これまでの態度にたまりかねた日本は1902年に日英同盟を結び、1904年2月9日ロシアに宣戦を布告した。

 1905年に東郷平八郎率いる日本連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が日本海で激突した。(ちなみにバルチックとはその発航地バルト海にちなみ日本がつけた通称である)
このときの旗艦三笠は横須賀に停泊している。

 日本海海戦に勝利をおさめその後のポーツマス条約をアメリカのルーズベルトの仲介で結び日本は朝鮮を手に入れることが出来た。


●感想

 横須賀に泊まっている三笠がバルチック艦隊を破った旗艦と知って驚きました。

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日露戦争について (望月彩葉)

●主な原因:

欧米と対等な関係をつくり、侵略されないようにするために、日本は欧米のまねをして富国強兵の政策を進め、朝鮮を植民地にしようとしていました。
しかし、同じようにロシアも中国(満州)や朝鮮へ勢力を広げようとしていました。
そこでロシアは日本が日清戦争後、下関条約でリャオトン半島を得たことに反対して、フランス・ドイツとともに三国干渉をおこしてそれを清に返すように要求し、日本も同意しました。
しかしロシアはその直後にリャオトン半島を租借したため、日本では「臥薪嘗胆」という言葉が流行るほど反ロシア感情が高まっていき、その後ロシアが極東での南下を押し進めたことに危機感を感じたことをきっかけに、戦争の準備を始めました。


●経過:

 ロシアは日本の連合艦隊に大打撃を与え、制海権を獲得しようと、当時世界最強だったバルチック艦隊を日本海に遠征させました。
しかし日本の連合艦隊がこれを対馬海峡で捕らえ、歴史的大勝利をおさめました。
戦局は日本有利に進んでいましたが、日本は激しい消耗戦争を余儀なくされていたので、ロシアに革命がおこったのをきっかけに、講和条約を結びました。


●結果:

 日本は勝利し、ロシアは韓国に対する日本の支配権を認め、樺太の南半分を日本の領土としました。
また、ロシアは中国から借りていた旅順・大連と、満州に建設していた東清鉄道の一部を日本に譲りました。


●感想:

 朝鮮や中国の人達から見れば、ロシアが勝っても日本が勝っても侵略してくることに変わりはないなと思いました。
日本があんなに大きいロシアに戦争で勝てたのはすごいことだなとも思うけど、今から考えると、ここで負けておけば太平洋戦争ではあそこまで多くの犠牲者を出さずにすんだんじゃないかと思います。

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日露戦争について (和田裕紀子)

 1895年、三国干渉。日本がロシアに対しての敵意を持った例と思います。
ロシアは、冬になると大部分の港が凍ってしまい、船の出入りが困難になります。
そこで、「不凍港」を作ってロシア艦隊の機動性を高めるために、日本が下関条約によって手に入れたリャオトン半島を手に入れたいと考えました。
そこで、ドイツ、フランスを誘い、三国干渉に乗り出しました。
ロシアの極東艦隊は、日本が申し入れを拒絶するなら攻撃してでも言うことを聞かせようとしていたので、日本は涙をのんでリャオトン半島を受け渡しました。
このことは、日本の国民に屈辱感を与え、ぜんこくに「臥薪嘗胆」の合言葉が広まりました。
そして、日本国民はロシアに対して敵対心を持つようになりました。


 そして1904年、ロシアは大々的な南下政策をとり、その手は満州、朝鮮にまで伸びてきました。
そのときの戦争賛成派の意見では、「ロシアはひとたび満州を占領すれば、次に朝鮮に進出するのは誰の目にも明らかなことである。また、朝鮮が占領されれば、次にロシアの目がどこに向くかも言うまでもないことだ。だから、今日満州問題を解決しなければ朝鮮もまた危なく、朝鮮が危うければ、日本の防衛も不可能となってくる。」と東京帝国大学七博士がのべています。

  このままでは日本はロシアに占領されてしまう!!

 そう思った日本の首脳陣、桂太郎、山県有朋、伊藤博文などは諸処の経緯がありながらも、1904年(明治37年)大国ロシアに宣戦布告しました。


 陸軍は続々と中国大陸に上陸し、ロシアと野戦を繰り広げました。
鴎緑江の戦いあり、遼陽の会戦あり・・・...結構ギリギリだったにしても順調に勝ち進んで行きました。

 1905年(明治38年)には旅順要塞という強固な陣地を陥落させ、日露戦争における正念場の一つ、黒溝台の戦いにも辛勝し、奉天を占領したことで、陸軍の仕事は一段落つきました。

 世界世論は「日本の勝利」を報じ、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが日露両国を講和の席に着かせようとしたが、ロシア側は拒否します。
 なぜかというと、ロシア側の望みは、当時の最大艦隊と言われる、バルチック艦隊、つまり海戦にかけられていたのです。
バルチック艦隊とは日本海軍が付けた呼称で、正式にはロシア海軍が極東に派遣するため、本国艦隊をもって編成された第二太平洋艦隊とさらに旅順の陥落後、編成された第3太平洋艦隊を合わせた艦隊を総称したものです。

 その事を察した日本側は、バルチック艦隊に対する戦闘準備をし、「皇国の興廃この一戦にあり 各自鋭意努力せよ」との訓辞をあたえ、この一戦に全てをかけました。

 聯合艦隊司令長官に任ぜられた東郷平八郎は、明治38年5月27・28日の両日、対馬沖で迎え撃ってその殆どを撃沈し、ロシア艦隊38隻中、ウラジオへ到着できたのは3隻のみという空前絶後の大勝利を収めました。

 俗に言う、「日本海海戦」と言われるこの海戦は、あっけなく日本側が勝利しました。
これで、ロシア側が意地を張る要素がなくなり、講和の席に着かざるを得ませんでした。
 こうして、日露両国の講和で「ポーツマス条約」が締結され、日露戦争が終結しました。


 この戦争により、日本は国際的地位を高め、世界的にその名を知らしめることになったのです。
 しかし、民衆は賠償金を取れなかったことに怒り、日比谷公園を焼き討ちし、全権大使小村寿太郎を非難しました。
国民たちは、自分たちの生活がよくなることを願って日露戦争にかけていたのです。
それなのに日本には1ルーブル(ロシアのお金の単位)も入らず・・・・。

 この日露戦争は、欧米の圧倒的な植民地化の波が中国大陸、朝鮮半島に迫りつつあった時に、有色人種の日本が立ち上がり、はじめてキリスト教徒の白人種を敗北させた戦争でもありました。 
 そして、日本の勝利を境にアジア、アフリカ、アラブなどの民族独立運動が高まり、その動きは単に有色人種間だけに止まらずに、ロシアの圧政に苦しむフィンランドやポーランド、トルコなどへも飛び火して、ポーランドやフィンランドなどの独立、トルコ革命にも連なっていきました.
また米国では黒人の人種差別撤回運動へと連なりました。

このように日露戦争は全アジア・アフリカの有色人種を覚醒させ、総ての西欧植民地に致命的打撃を与え、有色人種やロシアの支配下にある白色人種にも民族独立の夢と戦いを生んだ戦争でもありました。



●感想・意見

 戦争はいけないことだけど、でも、開国して少ししかたってない日本が軍事大国のロシアに勝利したのはすごいとおもいます。
日露戦争によって失ったものは日清戦争よりも大きいと思うけど、得たものも大きいと思います。
でも、ある参考資料には、
「日露戦争で日本が活気付いたことは確かで、日露戦争の勝利に酔いすぎ、太平洋戦争の憂き目は見ることなどは夢にも思わなかったでしょう。」
と書いてあって、確かにそうかもな〜〜とか一人で思ってました((笑  
明治時代に行ってみたいです・・・・。

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日露戦争について (林 剛人)

●戦争の原因・経緯・結果

 1904〜1905年に行われた日本とロシアの戦争を言う。
ロシアの満州方面への南下政策を食い止め,朝鮮を日本の勢力の下に治めることを目的として行われた。

【開戦の原因】
 日清戦争後の下関条約で清は朝鮮が独立国であることを認めたが,その後はロシアの勢力が朝鮮に進出することになった。
一方、イギリスは日英同盟の締結を日本に提案し,交渉の末1902年日英同盟が締結された。
日英同盟はロシアの南下政策を阻止するために結ばれたものであった。これをうけてロシアは同年4月露清協定を結んで段階的に満州から撤兵することとした。
しかし期限が迫っても依然として満州を制圧状態に置き,朝鮮にも進出する気勢を示した。
このようなロシアの南下政策に対して日本は4月21日に伊藤博文・山県有朋の二元老と桂太郎首相・小村寿太郎外相による首脳者会議を開き,これを機会に日本側の申し入れによって8月から日露交渉が行われるようになった。
この交渉で日本はロシアに対しては韓国がロシアの特殊利益範囲外であることや,清・韓両国の独立・領土保全の原則を認めるよう要求したが,ロシアは満州問題は露清間の問題であるとの立場から日本と協議することを拒み,交渉はしだいに行き詰まった。
その間日本ではロシアに対して強硬な態度で接するべきだという声が国内に高まった。
幸徳秋水・堺利彦らによる非戦論や内村鑑三の反戦論なども行われたが,全体としては少数論だった。
政府も交渉継続中に作戦計画を策定し,イタリアで建造中のアルゼンチンの巡洋艦2隻を購入するなど戦闘準備の体制をとった。
1904年の日本案に対するロシアの回答がないまま,2月4日の臨時閣議・御前会議で開戦を最終的に決定した。
2月6日には国交断絶をロシアに通告し,8日には日本海軍が旅順港外のロシア艦隊を攻撃し,9日には仁川沖でロシアの軍艦2隻を撃破した。
正式の宣戦布告は2月10日に日露両国より行われたが,宣戦の効力は敵対行動の行われた時点にさかのぼって有効とされた。


【戦争の経過】
 開戦と同時に日本陸軍は仁川に上陸し,あっという間に朝鮮(韓国)を制圧し,4月末からは鴨緑江を越えて満州に進撃した。
5月末には大連を占領し,8月末からの激しい戦闘のすえ9月4日には遼陽を占領した。
8月10日の黄海の海戦では日本海軍はロシア艦隊を破った。
また陸軍は8月以降年末までに3度にわたる激戦のすえ203高地を占領したが,これらの戦闘では6万近い死傷者を出した。
1905年1月には旅順を占領し,3月には日露両軍の激戦の末日本陸軍が奉天を占領したが,この戦闘では日本軍は7万,ロシア軍は6万の死傷者を出すという激しい消耗戦争であった。
この奉天会戦の後には児玉源太郎満州軍総参謀長は密かに帰国して,政府に早期講和を要請するほどであった。
ロシアはヨーロッパからバルチック艦隊を極東に派遣したが,日本の連合艦隊が対馬海峡でこれを迎え撃ち,5月27〜28日の日本海海戦でバルチック艦隊を破った。
戦局は日本に有利に進んだが,実際には日本は激しい消耗戦争を強いられて,長期戦を遂行する余力はなく講和の機会をうかがっていた。
ロシアにおいても1905年1月には帝制支配に対する革命的な蜂起がおこり(「血の日曜日」事件),ロシアは内部から揺るがせられた。
結局日本の派遣した金子堅太郎伯爵の説得もあって,アメリカのルーズヴェルト大統領の仲裁によって,アメリカのポーツマスにおいて講和会議が開かれることになった。

【講和条約の締結】
 ポーツマス講和会議は8月10日より開始されたが,ロシアは領土割譲・賠償のいずれにも応じない強硬な態度をとった。
そのため交渉は難航したが,ようやく1905年9月5日に日露講和条約(ポーツマス条約)が締結されるに至った。
ポーツマス条約の主な内容は次の通りである。

[1]韓国における日本の政治・軍事・経済的優越権の承認,必要な場合日本が韓国に対し指導・保護・監理の措置をとり得ることの承認。
[2]ロシアの遼東半島租借権(露清間の租借条約(1898)による)ならびに南満州鉄道に関する諸権利の日本への譲渡,ただし清国政府の承認を要する。
[3]北緯50度以南の樺太の日本への割譲。
[4]北洋水域における日本の漁業権許与の約諾(実際にはこの約諾に基づいて漁業協定が結ばれ,日本の漁業活動が行われた)。
[5]新通商航海条約締結までのあいだ相互に最恵国待遇を与える。

 この条約には賠償条項が含まれていなかったので,これを不満として条約調印に反対する非講和運動がおこり,条約調印と同じ9月5日には日比谷公園で調印に反対する"国民大会"が開かれ,戦争継続を決議した。
大会に参加した民衆はさらに内相官邸や交番などの政府機関,条約締結に賛成した新聞社などを襲撃して暴動状態は翌日まで続いた(日比谷焼打事件)。
政府は6日戒厳令を施行し,軍隊を動員して鎮圧したが反対運動は全国各地に広まった。


●感 想

 この戦争はロシアが自分勝手だったので、日本が無理にでも干渉してくれてよかったと思う。
また、話し合いで解決するのが一番いい方法だけれど日本の強気なところを見せることが大事だったと思うので、僕はこの戦争には賛成します。
ただ、死傷者がたくさん出る前に、もっと早く講和するべきだったと思う。

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日露戦争について (山下美咲)

 今年2004年は日露戦争開戦(1904年)からちょうど100年です。
明治維新後わずか30数年で世界の強国と戦うことになった日本と、ロシアが受けた影響について述べてみたいと思います。


 まず、開戦の原因は、ロシアが、三国干渉で日本が手放した租借権を得て遼東半島へ進駐、旅順にロシア太平洋艦隊を配置したことが一番の原因かと思います。
これにより日本における対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていきました。

 ロシア側は、ニコライ2世(ロシアの皇帝)や陸軍大臣クロパトキンは開戦に消極的であったと言われています。
朝鮮半島を日本、満州をロシアの支配下に置くという妥協案も考えられていたようです。
しかし、ロシア海軍や関東州総督のアレクセーエフらは、朝鮮半島に日本軍が入るのは脅威であると考え、積極的な開戦論を主張しました。

そして、1904年2月8日、ニコライ2世は、アレクセーエフに対し日本との戦闘行為を一任。事実上日本との戦争を決断しました。

 日本側の陸海両軍による奇襲攻撃に始まり旅順攻囲戦、奉天会戦、日本海海戦などの結果、日本側の優勢が確定。
一方ロシア側は相次ぐ緒戦の敗北及び、それを含めた帝政に対する民衆の不満(血の日曜日事件)による政情不安を抱えて効果的な反撃ができず、アメリカの仲介の下、1905年10月に締結されたポーツマス条約により正式に終戦しました。

期間19ヶ月、戦費17億円、総兵力109万人、戦傷者38万人に達しました。
陸軍の兵食の不備(白米を主食とする)による脚気患者も25万人、(内、病死者は2万7800人(死亡者8万7983人中))に上りました。

 この戦争によって日本は、勝利を得たことにより、国力に比して分不相応な野心を抱き、かつて同じ境遇であったアジア諸国への思いやりが減る端緒にもなりました。
さらに、大陸に権益を得たことで大陸側に深く関わらなくてはならなくなり、後の日中戦争や太平洋戦争の一因を作ることとなります。


 ロシアは極東への南下を断念し、その矛先を再びバルカンに向けることになります。
そして、この戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善、それぞれ日露協約、英露協商を締結する。
このことが第一次世界大戦の引き金となりました。

更に、日英露三国により中国権益から締め出されてしまったアメリカは対日感情が悪化、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。
また、戦争による民衆の生活苦でロシア第一革命を誘発、ロシア革命の原因となりました。


 私は、開戦の原因を調べていると日本、ロシアの思惑が複雑に絡み合っていて、要約するのがとても大変でした。
それに日本、ロシアのどちらが悪いのかというのもいまいち良く分かりませんでした。
しかし、この戦争によって、後に独立した国々の指導者達の回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、植民地になっていた地域(アジア・アフリカや当時ロシアの植民地であったフィンランド等)の独立の気概に弾みをつけ、人種差別下にあった人々を勇気付けた」と記されるなど、植民地時代に於けるの感慨の記録が散見されるなど、植民地にとっては勇気づけられるものでした。

 日露戦争は植民地には勇気や希望を与え、日本やその他の国々にとっては、世界大戦への序曲となりました。
現在、日本とロシアの関係はこれまでの150年間の日露の歴史の中でも非常に良好な状態にあるとおもいます。
それにはまず、北方領土の問題を早く解決し、そしてこれまで以上の関係を築いていってほしいと思います。

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日露戦争について (山際マリオ)

●原因

日清戦争に勝った日本に対して、ロシアはドイツ、フランスといっしょに三国干渉を行い、遼東半島を清に返還させた。
日本では臥薪嘗胆という言葉が流行るほど反ロシアの世論が高まった。
その後、ロシアは遼東半島を租借して旅順、大連に要塞を建設し、極東での南下を推し進めた。
これに亡国の危機を感じた日本は海軍建設などロシアを仮想敵国として急速に戦争準備にとりかかった。

当時ロシアはフランス、ドイツと同盟関係にあり、日本は極東のロシア進出をけん制したいイギリスとの間に日英同盟を締結していた。
一方、強大な陸海軍をもつロシアに対して、日本は戦争を回避する努力も行ったが、1904年ついに日本はロシアと戦争することを、決意した。


●経過

日本軍の功績

★海軍 日本海の海戦
ヨーロッパから助けるためにやってきたロシア海軍のバルチック艦隊に大打撃をあたえ戦況を有利にした。

★陸軍 旅順要塞攻撃
難攻不落を誇ったロシアの旅順要塞を、1905年の1月、ついに陥落させた。
しかしロシアの旅順要塞を陥落させた代償として日本軍は多大な戦死者を出してしまい日本軍にとっても、大きな痛手となった。


●結果

ポーツマス講和会議は、1905年の8月10日からアメリカ北東海岸のポーツマス軍港で開かれ、ポーツマス条約が結ばれた。


●意見

旅順要塞を無理に倒さないで、他の倒しやすい場所をたくさん攻撃した方が得だと思う。


●感想

なんで日本がロシアと引き分けになったのか分からない。

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 満州事変 

満州事変 (永山 翼)

●戦争勃発の原因

 世界恐慌の影響で日本経済は不景気にみまわれ、軍隊も民衆も共に生活が苦しくなりこのままではまずいと思い、軍部らの間に満州を植民地化して危機をのがれようとする動きが強まったため南満州鉄道の線路を意図的に破壊して柳条溝事件を起こし、それを中国のせいにして満州制圧をした。
その事を満州事変という。

戦争勃発当初は日本の方が兵隊の数も装備も不利であったが「軍事の天才」と呼ばれた石原莞爾が軍をしきっていき5ヶ月で満州全土を制圧した。


【感想】
 最初はどちらの国が原因なのかは全然、わかりませんでしたが調べているうちに日本が一方的に攻めたことがわかりました。
なぜ、昔日本は戦争ばかりしていたのでしょうか。
ないものが欲しいという気持ちはわかりますが「くれないから奪えばいい」という発想はおかしいと思います。


●戦争中の民衆の暮らし

 女性や子供は父や兄が戦場に行くのを悲しみながら送って、「千人針」というお守りのような物を作って戦場に行く人(対外は家族で戦場に行く人)に渡して生きて帰ってくることを願っていました。

【感想】
 自分を含め現代の国民の生活からはまったく想像もつかない暮らしをしていた事を知って「平和な日本に生まれてよかった。」と思いました。


●中国にとっての「満州事変」

 中国では満州事変のことを「中日東北戦争」「九一八事件」と呼んでいます。
突然、鉄道を爆破したと言い掛かりをつけられて攻撃され沢山の国民を殺され、沢山の建築物を壊され、本当に日本が起こした無謀な戦争です。

【感想】
 自分の国が昔、中国に本当にひどい事をしたのが恥ずかしいです。
 自分が生きている間もこれからも戦争は絶対におきてほしくありませんし起こしたくもありません。


●満州事変は中国の教科書ではどう書かれているか

 中国の歴史の教科書には「日本はおかしい国」のような事がかかれていて、日本に対する批判文が書かれています。
戦争中の怒りがまだ、消えていないようです。

【感想】
 たしかに日本は中国に対して昔からひどい事をしてきました。
けれど、戦後、日本は今まで行った行為を反省し様々な平和的憲法を定め戦争は二度と起こしてはいけないということを自覚しました。
それに今の日本国民を見れば絶対に「凶暴な奴等だ」などということは絶対に思わないと思います。
小泉首相もいつもニコニコしていて穏やかな雰囲気が漂っているので。
だから昔の事を全ては無理かもしれませんが少しは忘れて、今の日本を見てほしいと思います。

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満州事変の原因・経過・結果 (森 汐帆)

 満州事変は、1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃に中国遼寧省の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破された事件で関東軍幕僚の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐が、独立守備隊に命じて実行させたものでした。

 彼らは早くから、満蒙問題は満州を武力で領有することで解決できると主張しており、そのきっかけを作るために起こしたものであったのです。
 中国兵は日本軍の関東軍独立守備隊に射殺され、さらにこの事件は中国軍のしわざだとして、約100人の関東軍が「北大営」へ突入し占拠しました。
またこれを口実にして日本の守備隊は武力行使を行い、翌日までに奉天、長春、営口を占領していきました。

 日本政府は、事件の翌日に緊急閣議を開き、南陸軍大臣は関東軍の自衛行為であると強調し、幣原外務大臣は関東軍の謀略ではないかと追及して閣議では事態をこれ以上拡大しない方針が決められたのにも関わらず、関東軍は日本政府を無視し、自衛のためと称してさらに戦線を拡大しました。

 中国側の不抵抗主義もあり、5か月後には満州のほぼ全土が関東軍の制圧下に入り1932年3月1日には、満州国の建国が宣言されました。
なお、中国ではこの事件を「九一八事件」と呼ばれ、日本は日中戦争が始まったのが1937年の蘆溝橋事件とされていますが中国は1931年の九一八事件こそ抗日戦争の始まりだとする主張が有力だと言われています。

 私はあんまりこの満州事件を起こしたのは間違いだと思います。板垣さんと石原さんの武力で領有することが解決になるという理論も、又日本政府の方針を無視して戦線を拡大していったのも、結局はこれを後に日中戦争が勃発し日本を泥沼の戦争に引きずり込む原因となってしまいましたし。
何だか全否定していてこんなこと言うと歴史がかなり変わっていってしまう気がするんですが(笑)
でもこの満州事変で日本がしてしまったことはもしかしたら自業自得だったのではないかと思います。
まぁもうとっくの昔に終わったことなので今更何を言っても変えられないんですけど。

 故に、私の意見は満州事変の歴史を振り返ってみて日本でも他の国でも戦争のない平和な世界になっていってほしいということです。

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満州事変の発端や内容 (鵜久森隆道)

 関東軍は国民政府と提携して排日・抗日の態度を強める張学良とその軍隊を倒し,満州を全面的に支配するため、1931年9月18日夜,関東軍は,奉天(現在の瀋陽)郊外で南満鉄道爆破事件を起こし(柳条湖事件),これを中国軍の行為だと主張して張学良軍を攻撃し,翌日には奉天城を占領した(満州事変).

第2次若槻内閣は,不拡大方針をとったが,軍部は方針に従わず,たちまち全満州を占領した.
翌1932(昭和7)年3月,軍部は「満州国」をつくりあげた.

そして同年9月,日本政府は日満議定書に調印して,同国を承認するとともに,満州国を日本の完全な支配下においた.
中国国民政府は,満州事変を日本の計画的侵略であるとして国際連盟に提訴した.

国際連盟はイギリス人のリットン卿を団長とするリットン調査団を日本・中国に派遣した.
しかし,調査団来日の翌日,「満州国」建国を宣言し,調査団の延期要請にもかかわらず,日本政府は調査団報告書公表直前に「満州国」を承認し,日満議定書を調印した.
日本軍による1933年2月の熱河省攻撃は報告書を審議する国際連盟総会のさなかであった.
日本は翌日,国際連盟を脱退するが,国際的孤立につながるこの道は,日本が国際的動向に対抗しつつ選んだものであった.
関東軍は計画的に戦線を拡大し,開戦半年後には満州の主要部分を占領した(満州事変).

こうして,日本と中国の15年にわたる戦争(十五年戦争)がはじまった.


●思ったこと

 最近、ずっと問題になっている朝鮮半島のあたりの国との国交がなかなか回復しなくて、僕は、朝鮮の人は、頭が固いのかなぁと思っていたけど今回、満州事変について調べてみて朝鮮の人との国交がなかなか回復しないのも無理ないなと思いました。
なぜなら、日本が朝鮮の人に対してひどい扱いをしてきていたからです。
このことから僕は、何事も回りまわって自分に返ってくるってことを改めて知り、速く冬休みの宿題を終わらせようと思いました。

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 日中戦争 

日中戦争 (森野玲夏)

私は、日中戦争の原因・経過・結果について調べまとめようと思う。

初めは北支事変、戦争が全面的になってくると支那事変、第二次世界大戦後には日華事変と呼ばれ、1972年に中華人民共和国と国交が結ばれた後からは日中戦争と呼ばれるようになった。

このようにたくさんの呼ばれ方がある日中戦争が起ったのは、満州事変後のことである。

日本は満州経営の負担増加・国内の資金難や原料難・軍部右翼の政治的な進出などによって行き詰ってしまい、それまで以上の積極的な大陸進出が必要とされた。
そこで軍部を先頭に華北分離工作、つまり華北の第二の満州国化が強行された。
それに対して中国共産党は抗日救国宣言を出し、やがて日中全面戦争に突入していった。

1937年7月7日に北京南西郊の盧溝橋付近で、日本の駐屯軍の一部と中国軍との間に衝突が起こった。
7月28日に日本軍は総攻撃を開始、北平・天津一帯を占領した。8月13日には上海でも両軍の衝突が起こり、12月13日には南京を占領した。

1938年末から太平洋戦争が始まる1941年末までの3年間は、特に大きな戦闘はなく、長期持久戦の段階に入った。
日本軍は駐屯地とその交通路を維持するだけで、ゲリラ戦に悩まされ続けた。
中国側も経済危機が激化し、国共合作に亀裂ができはじめた。
こうした中国内部の分裂に乗じて、日本は1940年に汪兆銘を首班とする傀儡政権を成立させたが失敗した。

1941年、対中国戦争の解決のため日本はアメリカとイギリスに宣戦し、日中戦争は第二次世界大戦に繰り込まれ新しい段階に入った。
日本は南方作戦を強行し、大陸打通作戦を開始した。
しかし制空権を失い、占領地域を確保できずに途中降伏を迎えた。

8年間にも及んだ日本の侵略戦争は、中国側にたくさんの損害を与えた。
中国国民が最後まで戦い抜いたことは、彼らに政治的自覚と民族的統一を植えつけた。
それは国民政府に見切りをつけ、新しい中国の建設への基礎となった。


日中戦争は長期的なものだと知りました。
ここで調べまとめたことが、少しでも授業に役立てば良いなと思う。

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日中戦争 (中村高志)

日中戦争(1937)  
   〜戦争の原因・経過・結果についてまとめ、感想・意見を書く〜

●原因

 日米戦争の原因は日中戦争にあり、日中戦争の原因は満州事変にあること、つまり三つの戦争は原因・結果の関係にあります。
しかし、三つの部分は、ある程度独立しているため、別々に考える必要があります。
その中の日中戦争は、偶発的に起こった戦争で、戦争開始について、日本政府は積極的ではなかったものです。
原因は、日本資本・朝鮮農民の中国進出に伴う民族の争い、それによる領土の拡大願望が第一の原因であります。


●経過

第1期
 1937年7月7日,北京南西郊の蘆溝橋付近で,日本の駐屯軍の一部隊と中国軍との間に衝突がおこり、現地では一時停戦協定が成立したが,日本政府は従来の案を解決しようとして無理矢理に華北派兵の決意を表明したため,事件は拡大の方向に向かいました。

第2期
 武漢作戦の終わった1938年末から太平洋戦争が始まる1941年末までの3年間は小規模な戦闘はあったが大きな戦線の出入りはなく,戦争は長期持久戦に入り、日本軍の占領下では解放区が次々に成立していきました。

第3期 1941年12月8日,泥沼に落ち込んだ対中国戦争の解決の道を求めて,日本は米・英に宣戦,日中戦争は第二次世界大戦の一環に繰り込まれ新しい段階に入った。日本は南方作戦を強行する一方,これに呼応する形で大陸打通作戦を開始したが,しかし日本軍の攻勢もここまでで,制空権を失い後方補給が続かず,占領地域を確保でき
ずに後退を余儀なくされその途中降伏を迎えました。


●結果

 8年間にわたる日本の侵略戦争は,人的物的の両面において中国側に大きな損害を与えました。
しかし中国国民が団結と統一の力で最後まで戦い抜いたことは,かれらのなかに民族的統一を強く植えつけることになり,やがて腐敗した国民政府に見切りを
つけ新中国建設への道を切り開く基礎となりました。


●感想・意見

 自分の欲のためだけに勝手に始めた戦争で何万という人たちが殺したのことを同じ日本人として我慢できません。
日本は今までしてきた歴史をふまえつつ、もっと積極的に中国と外交をしていき、これからはさらに日中がお互いの国を思い合って、相互信頼を築き上げ、発展していくことができたらすばらしいと思います。

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日中戦争下における人々の暮らし (谷川大介)

「日中戦下(含む太平洋戦争下)における人々の暮らし」


 日中戦争とは1937年7月7日、盧溝橋事件に始まり、1945年8月15日、日本の無条件降服に至るまでの日本と中国の戦争を言う。
この間には1941年12月8日開戦、1945年8月15日、終戦までの太平洋戦争が重なるので、この両戦下にまたがる人々の暮らしを調べてみた。

 結論を先に言ってしまえば、民衆の暮らしは長期間にわたる戦時体制の下、 "忍耐"と"我慢"と"辛抱"の中にあった様だ。

 最初に、一般物資の供給の方法を調べてみた。
まず1938年に、綿糸「配給統制規則」という初の切符制がひかれ、続いて「ガソリン切符制」も実施された。
その為、民間の自動車はガソリンの使用が出来なくなり「木炭自動車」「薪自動車」といわれる代用燃料車が登場した。
木炭や薪から可燃性のガスを作り、それを燃料として走行したらしい。
ガソリンスタンドが至る所に有り、電気自動車もあり、気軽にドライブを楽しめる現代と比較すると、車の走行一つにも想像を絶する時間と手間が掛かった様だ。

 一方食料面をみてみると、戦争の長期化による労働力不足、肥料不足などで主食の米の生産力が減退し、都市民への米の供給の為、政府は1940年米穀供出強制措置を決定、米穀管理規制を公布して、農家に対しての米の供出制実施に踏み切った。
その為、1941年から米は配給制となり、成人への配給は1日2.3合(330?)となり、1945年には2.1合に切り下げられ、さらに「7分つき」「玄米」と変化して米の配給がなされた。
米の生産力が減退してからは「甘薯」が米の「代用食」となり、主食となった。
食べ盛りの青少年達は、どんなにかひもじい思いをした事であろう。(食が命の僕には、絶対耐えられない事!!!)

又この年の1年前、1940年には砂糖、マッチ等が切符制となり、2年後の1942年には衣料も切符制となった。
ついに供出、切符配給制の時代到来となったのである。

 物が溢れて余りある現代、僻地といわれる地においてさえも、手に入れられない物がほとんどない現代、「飽食の時代」と言われている現代を生きている僕らには、これ又想像もつかない不便な、辛抱、我慢のいった生活だったと思う。


 次に戦時下の子供達の生活を調べて見ると、1941年4月には、小学校は「国民学校」と改称され、遊びたい盛りの学童も戦時体制に組み入れられ、軍事教練が行われている。
1942年の東京「中目黒国民学校」での軍事教練の写真があるが、中腰で銃を片手に校庭で訓練を受けている様子が見て取れる。

学童の姿は、現代の小学生の顔つきとは雲泥の差、きりりとした勇ましい姿である。
そして1943年には、戦争の激化に伴い、大学生や専門学校生徒達に対する徴兵猶予が停止され、陸海軍部隊に配属される、いわゆる「学徒出陣」である。

政府は翌1944年8月には学徒勤労令を公布し、全国の国民学校高等科、中等学校以上の生徒を軍需工場に動員した。
同年9月には本土空襲の激化に伴い、重要都市の国民学校初等科学童(3年以上)の集団的疎開を実施した。「学童疎開」である。
テレビ等でこの時代の「学童疎開」の模様を観る機会があったが、親元を離れた田舎のお寺などで集団生活をしており、その生活は食べ物も満足ではない、涙を伴った耐乏生活であった様である。よく辛抱していたなと思う。

 なにもかも完備された公文生の寮生活とは、天国と地獄の差がある。

 現在の僕達には「学習」の時間や場、機会が潤沢にあるし、選択の幅もある。
それがゆえに、逆にこれを放棄したり、怠慢になっている現状があると思う。反省の至りである。


 さらに、男子が戦争に徴兵、徴用された後の女性の生活、いわゆる「銃後の生活」を調べてみた。

まず1944年竹槍などでの国民総武装が決定され、女性の竹槍訓練が始まる。
そして同年8月23日、12歳以上40歳未満の未婚の女子に1年間の勤労を義務づけた「女子挺身勤労会」が公布され、地域職域別に女子挺身隊が結成され、軍需工場等に動員された。
又、空襲に対して街路庭先等に防空壕が作られたが、男性は徴兵、徴用されて労働力が不足していた為、これも女性の仕事であり、力仕事をした。空襲を受けた場合に被害を最小限に食い止める事を目的とした訓練である防空演習の写真があるがここでも、もんぺ、防空頭巾で身を固め、手押しポンプ、バケツなどで屋根の上にのぼり、消火訓練をする婦人達の姿が見られる。

「ぜいたくは敵だ」(1940年流行語)「欲しがりません、勝つまでは」(1942年流行語)に表現される様に、女性達も華美な服装は一切せず、パーマもかけず、力仕事をもいとわず、必死に男性の不在の間、国を守っていたのである。

 振り返って、今の世の中はどうであろう。公序良俗に反しない範囲内で人々は、特に女性は多種多様の服装、お洒落をして自身の個性を表現しているし、その生き方も又多様である。

 戦時下の女性達の服装制限等にみられる、自己表現を制約された生き方は本当に不幸だったと言わざるをえない。
しかし、その当事者達にとっては、まさにその時の生活は必死のものであり、疑問や不満を心のうちに押し込めざるをえなかったのだろうと思う。
もし僕自身がこの戦時下の時代に生きて生活をしていたら、やはり時代の波に乗り、流されて、学徒動員にかり出され、甘薯を食べてひもじい思いをし、空襲に怯える生活をしていたのだと思う。


 この様に戦時下の人々の生活を調べてみればみる程、「戦争は悲惨であり、絶対にあってはいけない物であり、その芽さえも作ってはならない事」を強く思う。 なにがあっても戦争は回避しなければならないのである。

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 第2次世界大戦 

第2次世界大戦中の人々の暮らし (森本美登里)

 私は第二次世界大戦中の人々の暮らしについて調べました。

このころの日本の人々の生活は、ひどく苦しく、大変な生活だったろうと思います。
まず、戦争の拡大とともに国民の生活はいっそう悪化し、1942年には、塩・味噌・醤油・衣服などの生活必需品が配給制になりました。
人々は配給品だけでは食べていくことができず、食料を求めて「買い出し」にいったり、道路わきや学校の校庭などに畑を作ったりなどして飢えをしのぎました。
政府は兵器を作るために金属回収運動を行い、家庭のなべやかま、寺院の鐘まで差し出させました。
男性は皆、兵隊にとられ、さらには未婚の女性や女学生、中学生まで工場で働かせられました。
そしてついには、これまで徴兵を延期されていた大学生も軍隊に招集されるようになりました。

日本本土への空襲が激しくなると、大都市の子供達は集団で地方に疎開させられました。

 戦争中に、人々はこんな生活をしていたんだ・・・と思うとなんだかとても悲しい気持ちになりました。
私は今中学生なので、この時代に自分がいたとすると、工場で働いていると思います。
想像してみるととでもつらいと思います。
肉体的にもそうですが、精神的にも、今、自分が作っている軍服をそのうち誰かが着て、殺し合いをすると思うと。
私はこんな生活は絶対したくありません。
人が死ぬのもいやです。皆も同じと思います。この宿題での学習を通して、戦争はしてはいけないと改めて思いました。

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 太平洋戦争 

太平洋戦争 (山本佳奈)

★テーマ1

1941年12月8日
日本軍がハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を攻撃し、太平洋戦争が始まった。
太平洋戦争はアジアの国々に広がり、被害(死者)は中国約1000万人、日本約310万人、朝鮮約20万人、東南アジア約890万人となった。

1945年3月10日
アメリカ軍による東京大空襲が行われ約10万人もの死者を出した。

1945年8月6日
午前8時15分、広島市に原子爆弾が落とされた。3日後の9日には長崎市にも落とされ、両市を合わせて約30万人もの人の命がうばわれた。

1945年8月15日
全国に昭和天皇の肉声でポツダム宣言の受諾を国民に放送し、戦闘は終結した。


〜感想・意見〜

 日本がアメリカ軍基地を攻撃しなければ、戦争は起きなくてすんだのだと思う。
(でも攻撃したのには理由があったので、攻撃するのは仕方なかったのかも知れない。)
 空襲や原爆により多くの人々の命が奪われ残酷だ。


★テーマ2

●学童疎開
 日本本土への空襲がはげしくなると、都市の子供たちは親とはなれて地方の寺などに集団で疎開し、先生や友達と一緒に生活するようになった。
しかし、食料が大変不足していて空腹の毎日が続いた。

●小学校の生活
 戦争が長引いてくると、小学校でも戦いの訓練が行われるようになり、国語の教科書にも戦争に関する文章がのるようになった。
男の子たちは戦争ごっこをして遊ぶなど、戦争の影響が強くみられるようになった。

●不足する食料
 男の人たちが戦争に行ったり、軍事工場にかり出されてはたらいたりしているため、農作物の生産が大変減ってしまった。
また、生活必需品も不足するようになったため配給制となった。

●空襲に備えて
 空襲の的にされるため、家から外に光がもれないようにした。
 人々は防空頭巾や消化弾など、空襲に備えていろいろなものを準備していた。
しかし、本格的な空襲に対してはあまり役に立たず、逃げるのが精一杯だった。


〜感想・意見〜

 戦争中は国民の生活すべてが戦争に協力するようになっていて、食料や生活必需品は不足したり、空襲で家は焼かれたりで国民の暮らしは苦しかったのだろうと思った。政府はもっと国民の意見を聞き入れるべきだったのではないか。


★テーマ3

●開戦当時のアメリカ
 1941年12月8日の月曜日未明、日本は真珠湾奇襲攻撃に大成功を収め、開戦した。真珠湾攻撃で、アメリカ太平洋艦隊は打撃を与えられ約3000人の将兵が死んでしまった。
大統領はこの日を「屈辱の日」と名付け、アメリカ国民は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」というスローガンを掲げ、戦争の道へと結束した。
戦艦よりも空母が重要な役割を持つことが分かったアメリカ海軍は、効率的な航空機中心の戦法を採用することにした。
一方、日本海軍は、飛行機でなく戦艦重視の思想が続いた。これはその後の日本の戦いにとってマイナスであったといえる。

●原爆使用についての日米の認識の差
 多くのアメリカ人にとって、太平洋戦争は正義と民主主義を守るための「よい戦争」であり、原爆の投下は戦争の終結を早めたと考えられている。
そのために、B29とキノコ雲は、勝利と栄光のシンボルだと思われている。
歴史学者のジョン・ダワーさんは、「英雄的なアメリカ」のイメージにしがみついて、キノコ雲の下で起きた惨事や加害者としてのアメリカを考えようとしないと批判する。
しかし、その一方で、多くの日本人は加害者としての側面に目をそむけ、空襲や被爆でひどい目にあったことばかりを強調し、まるで自分たちこそが戦争の犠牲者であったかのように考えているという。
アメリカ人も日本人も自分たちが傷つくことを恐れて、歴史を正しく見ようとしない限り、再び、国際関係がゆがんでしまう可能性があると語る。


〜感想・意見〜

 同じ戦争なのに、日米ではずいぶん認識の仕方が違い驚いた。
例えば、原爆の使用についてのアメリカ人と日本人の考え方はだいぶ異なっているが、どちらが正しいともいえない。
 私は日本は戦争の被害者だと思っていたが、加害者としての日本を考え、それは違うと思い直した。
これからは自分たちだけが被害者だというふうに考えず、歴史を正しく見つめることが大切だと感じた。


★テーマ4

●ドイツの歴史教科書には、このように書かれている。

「1942年から43年への年の変わり目において、戦争はすでに欧州だけにとどまらなくなっていた。
日本が1940年に仏領インドシナを占領し、米国が19世紀以来、東アジア諸国に圧力をかけ続けてきた世界市場への開放政策を逆戻りさせようとし始めたとき、日米の対立は先鋭化した。
米国が日本に対する石油禁輸を実施し、中国からの撤退を求めた際、日本はハワイの真珠湾への奇襲を決行した。」

◆米国と開戦した日本の思惑と、国際的覇権をめぐる権力闘争の中で考えていた米国やドイツとの違いを指摘する部分もある。

「日本の軍指導部は明らかに、戦争を拡大する危険を冒すことなく、ドイツのポーランド侵攻のような電撃戦争を東アジア地域でも遂行できると思っていた。
だが、米国やドイツは日米紛争を、すでに1939年にドイツのポーランド侵攻で始まった新世界秩序のための権力闘争の一環ととらえていた」

◆そして、この戦争がアジアにおいてもたらしたものについてこう書いている。

「日本の勢力地域は中国からタイ、フィリピン、インドネシアにまで至り、1942年には4億5000万人を支配したが、当初、日本によって白人の植民地支配から解放されたと考えるものも少なくなかった。
日本のナショナリストや軍国主義者は、黄色人種を白人の支配から解放するために戦争を遂行したと主張した。
このなかで自分たちの利害を包み隠しているが、真実をついた面もある。
ベトナムやインドネシア、インドなど、欧州諸国に支配されていた植民地諸国の国民による独立運動は日本の勝利によって加速された。
数年のうちに日本は欧州の植民地支配層を追い出し、こうした支配層の特権が大きく損ねられたからだ」


〜感想・意見〜

 上の文章はインターネット上の文章からまとめたもので、言葉が難しい部分もあったが、太平洋戦争について客観的に書かれているように思った。
 日本と米国では、開戦した時からその戦争のとらえ方が違ったと思われる。太平洋戦争で日本が戦ったことで、アジアの国々に大きな影響を与えたと分かった。 他の国の教科書にはどのように書かれているのか調べてみたい。

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太平洋戦争 (五十嵐 心)

 1941年12月8日の早朝、日本の海軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍の基地を攻撃して大損害を与えました。
一方、これより少し前、日本の陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍を攻撃しました。
こうして、太平洋戦争は始まりました。

日本軍の戦場は、満州から中国大陸、東南アジア、太平洋へと広がっていきました。
戦いは、前々から戦争の準備をしていた日本に有利に展開し、開戦後の半年で、東南アジアの各地や、太平洋の島々を次々と占領しました。

しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で海軍が敗れてからは、大きな工業力を持つアメリカ軍の反撃を受け、日本軍は各地で敗退していきました。
しかし、政府と軍部は、国民に事実を知らせず、日本が勝っているように発表しました。

1944年には、サイパン島がアメリカに占領され、日本の配色が濃くなると、東条内閣はついに総辞職しました。

 戦争中の国民生活は戦争が長引くにつれて、食糧や生活用品のほとんどが配給で割り当てられるようになりました。
食糧不足の酷い都市では、わずかな空き地や道路の片隅が畑に変わっていきました。
こうした中で国民は「欲しがりません勝つまでは」という掛け声のもとに、我慢を強いられました。
また、男性の多くが軍隊に取られ、大学生達も軍隊に召集され戦場に送られました。
そして、中学生や女学生までが、工場や農村で働かなければなりませんでした。
それだけではなく、政府は約70万人の朝鮮人のほか、約4万人の中国人を強制連行し、鉱山や工場で働かせました。

 これを調べて私は、やはり戦争というのは、土地にも国民にもいろいろ被害が大きいのでしてはいけないと思いました。
また、戦争に負けてしまったのに勝ったと国民に嘘をついたのは最低な事だと思います。

最後に、今の時代もまだ戦争をしている国や、拉致問題、テロなど様々な問題があります。
このような問題を世界各国で協力して、早く平和な世界になって欲しいです。

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太平洋戦争 (松林 遼)

1.戦争の原因

@中国との対立
 1937年8月15日、日本は中国と日中戦争を開始した。
日本軍側はこの戦争は決戦まで長時間を要さないと考えていたが中国側は「抗日民族統一戦線」を結成して全面的に徹底的に対日本の構えだった。
その結果戦争は長期化、日本の経済は予想外の展開に影響され経済統制を実施しなければならない状況になった。

Aアメリカ・イギリスとの対立
 アメリカ・イギリス・オランダ等は以前から日本と対立していた。
そして日本に対して中国大陸の進出を停止する様交渉を開始。
そして日本に危機感を与えたABCD包囲陣により日本は日独伊三国軍事同盟を結成した。こうしてアメリカ・イギリス・オランダ等との対立が深刻化した。

B御前会議
1941年御前会議が開かれた。
12月1日までに対米交渉が成立しない場合は、対米英戦争を実行すると発表。
そして11月の日米交渉でアメリカが非妥協的な条件を日本に対して掲示したため、開戦が決まった。
この事は12月1日の御前会議で発表された。

C開戦
 12月8日日本時間午前2時、マレー北部上陸。午前3時19分、ハワイ真珠湾を攻撃開始。
午前4時、駐米日本大使がアメリカ側に最後通牒を渡し、宣戦の証書が発せられた。
そして、アメリカ・イギリスも対日宣戦布告を行い、開戦。


2.有利不利立場逆転

 1942年4月18日にアメリカ軍により東京が空襲された。
そして6月、日本の連合艦墜はミッドウェー海戦で米艦墜に大敗して日本は海洋主導権を失った。
日本に有利だった戦争も次第に逆転した。その上、連合軍の反撃が激化したため、日本は戦力を失っていった。


3.日本の敗退〜敗戦

 1944年に北九州がB29により空襲されて以来、B29による無差別空襲が始まった。
本土は全面的に空襲を受けるようになった。
それは軍事施設・軍需工場にとどまらず、住宅地、主要都市が次から次へと空襲を受けた。
1945年3,4,5月に東京は空襲により大惨事が発生、一面焼野原化した。
死者が多く出た。
補給路が封鎖され資材労働力も不足してしまったため、日本経済は、麻痺状態に陥り、国民生活は一層貧しくなり、士気も低下したので、政府も戦争終結を検討し始める。
しかし、1945年外務省を通じてソ連に終戦の調停を申し入れたが拒否された。
連合軍は7月26日、降伏勧告「ポツダム宣言」を発表したが日本はそれに対応せず、対ソ連交渉に期待していた。

そして1945年原子爆弾が広島に投下される。3日後には長崎に投下される。
更にソ連が「日ソ中立条約」を破り、宣戦布告したので日本はポツダム宣言を受け無条件降伏した、終戦。


4.人々の暮らし

 日中戦争が長期戦に発展したので、日本は戦時統制経済という経済に切り替えようとした「国家総動員法」。
これは、1938年4月1日に公布された。それに加えて思想統制も拡大して社会主義者のみにとどまらず、自由主義者も統制による弾圧を受けた。
この戦時経済体制が国民の生活を深刻化させる原因の1つである。
1940年、全体主義的国民組織「大政翼賛会」が作られ国民に官僚統制を押しつけようとした。
日本が独裁社会に切り替えられたのは1941年12月の「言論出版集会結社等臨時取締法」の公布の時である。
この取締法により軍部独裁体制が強化され国民思想が統一された。
1943年以降、戦争は連合軍に有利になり、日本の軍事力が弱まった。
これを補うため生産業に関わる労働者人口が不足した。
また男子総人口の10%、男子労働人口の17%が軍隊に動員、女子、少年、学生、生徒、朝鮮人の捕虜等が動員されたが、これによる生産活動の縮小と農業労働者の著しい不足のため農産物の供給量が減少し食糧不足が深刻化した。
食糧生活必需品は切符配給制になった。しかし、その配給量もしだいに減少した。


5.相手国にとって

 世界初の「核」原子爆弾の投下にあたって、当時のアメリカ大統領は原子爆弾の日本への投下をどうするか選択を迫られていた。
当時の広島・長崎の人口は54万人であった。
原爆を日本に投下する目的は日本に対する攻撃ではなく、日本に対する攻撃の準備をしているソ連に脅威を与えるためだったと考えられる。
そしてポツダム宣言を日本に受諾させたことから、アメリカはこれ以上の長期戦を望んでいなかったと考えられる。


6.沖縄戦での日本兵に対する評価

 日本の兵力がだんだん衰えてゆき、特攻隊等自滅攻撃等を実行していた日本は敗北(死)を覚悟して戦っていた。
その中でも沖縄の地上戦(1945年6月22日)ではアメリカ人7600人以上が犠牲になったが、沖縄を守るため刀を持ってかけ声と同時に アメリカ兵に向かってくる日本兵の事は「天皇に対する最後の義務を立派に果たされた」と評価されている。


7.外国の教科書

 アメリカの教科書訳によるとアメリカは日本が戦争準備をしていることを知っていたらしい。
ルーズベルトはハワイ・グアム・フィリピン司令官に「戦争突入警告」を発令した。
アメリカ側の対応は、我々の国は平和を愛する市民からなる民主主義であることを肝に銘じるべきであって 先に宣戦布告をしてくる日本に対してそれより先に攻撃を仕掛けて日本の攻撃を妨げるべきではないとルーズベルトは答えたと書かれている。

日本の教科書との違いは主な人物以外の一般市民の日記等を紹介している。
日本の教科書では日本人が被害を受ける記載が多いが、アメリカの教科書は原爆の被害を受けた日本人の言葉等の紹介もあり偏った内容になっていない。

これに比べて日本のものは自分の国に都合よく書かれている部分が比較的多いのではないかと思われる。


●感想・意見

1、日本が独裁政治化を実施しようとした時、なぜ、反対していた人々は全面的に抗議をしなかったのかという事が疑問に残る。
 多数の人間が反対派を立てれば戦争がこれまで悪化する事は免れたかもしれない。
 理由はともかく、日本は世界一の軍事力を誇る対米英方針をとったか、決定した愚かな人間達の考えはどうしても理解できない。
死刑は当然の処罰であると思う。

2、以前、戦争当時を再現したテレビ番組を見た事があるが、その時印象に残った事は、戦争中は日本は食に飢えていたが、終戦直後アメリカ兵は日本民間人に食料を配布している事である。
 極僅かな食料を幸せそうに食べる日本人が相当不幸な生活をしていた事がよく分かる。

 戦場へ連れて行かれた人間達が指導者に対して抗議しなかった事が疑問に残る。
銃はアメリカ兵ではなく戦争推進者・指導者に発砲すべきだ。

3、戦争被害者の中で1番不幸であった人は戦争推進者・指導者以外の日本人。
 その次は奴隷として扱われた朝鮮人他。
 その次は目の前で次々と倒れて行く人間が視界に入ってくる中、攻撃を命令された兵士。

 国単位で考えると1番の不幸は日本であったと言えるが戦争推進者・指導者に対する同情は僕には全く考えられない。
「命令するなら自分が戦え」と言いたい。

 しかしアメリカは戦争の早期終結を望んでいたので原爆を投下した兵士・東京大空襲の担当兵士は悲しい思いをしたと僕は思う。
殺人を好む人間はいないと思う。

4、調べて気付いた事は、日本の教科書からは戦争に対する反省が読み取れない事である。
 「日本の独裁政治が原因で戦争が起こり、日本は愚かな国だった。」と、日本は馬鹿な事をした事を後世に伝えていかなければならないと思う。

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太平洋戦争 (渡辺海斗)

 僕が調べたいと思ったのは太平洋戦争(第二次世界大戦・大東亜対戦)です。
この戦争は、ドイツの独裁者ヒトラーが、ポーランドに侵攻し、これに対して、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まりました。
その後、ドイツはノルウェー・デンマーク・ベルギー・オランダ・ルクセンブルグへ侵攻し、ドイツに味方するムッソリーニ独裁のイタリアがイギリスとフランスに宣戦布告、1940年いドイツはパリに入城しフランスは降伏しました。同年1940年、日本・独逸・伊太利亜の三国同盟が成立しました。

 翌年三月、松岡洋介外相はモスクワをたずね、日ソ中立条約の締結に成功しました。

1941年12月1日御前会議(天皇の前で、重大な国策を決定する会議)が開かれ、アメリカと戦うことになりました。

同年12月8日、日本軍はハワイ諸島のひとつであるオアフ島の真珠湾に奇襲攻撃をかけ、アメリカとの戦争が始まりました。
その後日本は東南アジアなどで略奪などを繰り返し、現地の人々に反感を抱かれました。

しかし、日本海軍の暗号をアメリカ軍に解読され、ミッドウェー海戦で多大な被害を被りました。
しかしこの海戦の正確な戦局を国民にかくし、うその結果を書いていたのです。

その後もガダルカナル島の戦いからの退却を「転進」とごまかしていました。

1943年にアメリカ軍によって、サイパン島を占領されて、今までも短い距離(約2600km)で攻撃できるので、補給地なしで、日本本土への空襲が可能となってしまいました。
同年11月以降、日本は連日のように空襲を受けるようになってしまいます。
これによって国民の不満が高まり、東条内閣はたおれ、陸軍大将の小磯国昭となりました。

 そして1945年3月9日と10日にかけての空襲は、死者十万、焼失家屋26万9千という被害をうけました。

 沖縄本島では、無差別爆撃や、集団自決や、軍の足手まといとして虐殺されるものもありました。

 1943年9月、イタリアが連合国に降伏し1945年4月にはヒトラーが自殺し、ドイツも連合国に降伏しました。
 同年7月、ドイツのポツダムで米・英・ソの首脳会議が開かれ、「ポツダム宣言」が日本にだされ、日本は黙殺し、1945年8月6日に世界ではじめて原子爆弾が広島に投下されました。
またソ連が日ソ中立条約をやぶり満州に侵攻。
3日後の8月9日には長崎にも原爆がおとされました。
8月15日、日本は無条件降伏しました。

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太平洋戦争 (岩片 啓)

 1941年12月8日、日本軍がアメリカの真珠湾を攻撃した。
しかし宣戦布告をしなかったため奇襲攻撃として、アメリカ軍の反感を余計買った。
これによって、太平洋戦争の口火が切られた。

開始直後は日本の優勢なように進められたが、1942年、ミッドウェー海戦でアメリカ軍に敗れてから日本は苦境に立たされていくことになる。

43年は東南アジアのガダルカナル島で、また44年はサイパン島で敗北していった。

敗色が濃くなっているのは目に見えているのに、それでも強情な日本は、国民にあたかも戦争に勝っているかのような発表をしていたという。

しかし、45年8月、アメリカによって広島及び長崎に原爆を投下され、ついにポツダム宣言を受諾、つまり負けを認めた。

 戦後はGHQ(General  Headquarters  of  the  Supreme  Commander  for  the Allied  Powers:連合国軍総司令部)の支配を受けていた。

戦犯の裁判、憲法改正、財閥解体などを経て、戦後の国作りが進められていった。1931年の満州事変から45年の終戦までを15年戦争という。

 原爆の犠牲者だけでも20万人超。空襲で亡くなった人々や戦死した兵士らを合わせたら戦争で奪われた命は数知れない。
中には戦争がやりたくて仕方が無い、という輩がいたとしても善良な国民達からしてみれば、無益な争いで命を失うことほど醜いものは無いと思うだろう。
いや、全く益が無いわけではないのかもしれない。
しかし失うものの方が多いのは明確だと思う。

 祖母も言っていた。今の政府は戦争の怖さを知らない、と。そして私たちも。
戦争になってから怖さを知る、それでは困る。
戦争にならないように、我々も頭の中に「戦争の恐怖」を刻んでおかなくてはならない。

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太平洋戦争 (大久保翔平)

 1937年から始まった日中戦争を受けて、以前から日本と対立していたアメリカ、イギリス、オランダ等は日本に対して中国大陸への進出をやめる様に交渉を開始した。
その中でアメリカ・イギリス・オランダは石油、鉄鋼の輸出制限などをする様になる。
これに危機感を強めた日本はドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を結んで発言力を強めようとしたが、逆にアメリカなどとの対立が深まってしまった。

 1941年、東条英機内閣はアメリカとの関係改善を目指して最後の交渉に挑んだが、交渉案を拒否され、中国・インドシナからの撤退や日独伊三国同盟の否定な度を求められた。
これを受け取らなければ戦争になると考えた東条英機内閣は開戦を決定した。

 1941年12月8日、日本軍はアメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイの真珠湾とイギリスの拠点であるマレー半島のコタ・バルに奇襲攻撃をし、アメリカ・イギリス軍と交戦状態に入った。

日本海軍は、航空戦力による海上支配戦術でアメリカ海軍の太平洋艦隊の奇襲攻撃に成功するが、実際アメリカ軍のダメージはそれほど深刻ではなかった。

一方マレー沖では、イギリス海軍の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと戦艦レパルスを撃沈し、史上初めて航空機が戦艦を撃沈するなどの快挙を遂げた。
第一次作戦は先制攻撃であることを含めての当初の予想を下回る損害で成功裏に終わった。

 連戦連勝だった日本軍の転機となったのがミッドウェー海戦で、空母機動部隊が投入されることをアメリカ軍は日本軍の暗号無線を解読して察知していた。
主力空母を撃沈され、真珠湾攻撃以来のベテランパイロットが減り、大打撃を受けた。
この時より日本軍の制空権は失われて敗北を続けるようになり、日本は国民に偽りの戦況を発表していった。

サイパン島がアメリカに占領されたことにより、日本の本州への空襲が可能になり、アメリカは徹底的に日本本土への空爆を行った。東京大空襲、大阪大空襲などがこれにあたる。

レイテ沖海戦は世界史上最大の海戦となり、太平洋戦争において最後の大戦闘となった。
この戦いで日本海軍はほぼ壊滅状態となり、まともな作戦行動は出来なくなっていた。
この際、航空機による特攻によってアメリカ海軍の護衛空母1隻を撃沈するという戦果を挙げ、神風特攻隊はアメリカ海軍を恐怖に陥れはしたが、戦局を変えるには至らず、多くの若者が海に散っていった。
そのころ早くもヨーロッパではドイツが降伏し、戦争は終結していた。

米英中の三カ国によるポツダム宣言に対し、返事を保留していた日本は、アメリカによって広島・長崎に史上初めての原子爆弾を投下される。

1945年8月10日、政府はNHKの短波を利用して、ポツダム宣言の受諾を全世界に通告、8月14日の会議において宣言の受諾を正式に決定し、8月15日に全国に昭和天皇の肉声でポツダム宣言の受諾を国民に知らせ、日本本土での戦闘は終結した。
降伏文書の調印は9月2日に連合国軍戦艦ミズーリ号で行われた。

 戦後、日本にダグラス・マッカーサーを総司令官とする連合国総司令部(GHQ)が置かれた。

 戦争の責任を追及する東京裁判が開かれ、元総理の東条英機陸軍大将などが裁かれ、7名が死刑にされたが、昭和天皇は責任を問われなかった。
次に治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行い占領体制を完成した。

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太平洋戦争について (野口 藍)

●日本のアジア進出

 近代の日本は日清、日露戦争を勝利しアジア進出を始めた。
韓国に対し日韓併合条約をむすびさらに中国北東部の満州を強引に独立させた。
日本がアジアに植民地をもち欧米列強国に遅れてアジア進出を始めた国家になった事で、既にアジアに植民地を持っていたイギリス(インド)、アメリカ(フィリピン)、オランダ(インドネシア)に日本は大顰蹙(ひんしゅく)を買い、列強国による日本追い出しが始まった。
 これに対し日本はアメリカを仮想敵国とし建艦競争をはじめ軍備拡張に乗り出した。
アメリカはワシントン会議で日本の軍備及びアジアにおける勢力拡張阻止を行った。
さらに日米通商条約を破棄し日本に対し石油等資源の輸出を前面禁止し、資産凍結等の経済制裁を加え、中国からの撤退を求めてきた。
近衛内閣は交渉に乗り出したがまとめる事が出来ず辞職、当時陸軍大臣だった東条英機が内閣総理大臣となり東条内閣が成立、再度交渉をまとめにかかったが決裂、さらに日米関係は悪化した。
 遂に日本は大東亜共栄圏(欧米諸国からアジア民族の開放)を主張し、これを大儀名文としアメリカ、イギリス、オランダに宣戦布告してしまった。


●なぜ真珠湾なのか?

 石油等の資源が輸禁で完全アメリカから入らなくなった日本は資源を確保に東南アジアの油田等を確保に動いた。
資源を安全に確保するにはまずフィリピンに極東軍司令部を持つアメリカ軍を叩かねばならなかった。
その本部である太平洋艦隊の基地がハワイオアフ島パールハーバーにあり、ここを完全に封鎖し安全に東南アジア進出を狙い、同時にアメリカに宣戦布告するという作戦を連合艦隊司令長官山本五十六大将が考案した。
 日本軍は宣戦布告と同時にフィリピンのアメリカ極東軍ら東南アジア方面を襲うと見せかけ、極秘に南雲忠一中将を真珠湾攻撃司令長官とする攻撃艦隊を日本から真珠湾向け出航させ奇襲攻撃を仕掛けた。


●背景

 最初の特攻隊出撃はフィリピンのレイテ湾での戦いであった。
ミッドウェー海戦以降の日本軍は大東亜戦争初期の勢いは無く、豊富な物資と強大な工業力をもつ米軍に徐々に追い詰められていった。
そんな中昭和19年6月15日、本土防衛の為の重要拠点であったサイパン島が米軍に攻略された。
これによりB29による本土爆撃が可能となった。
 
米軍はサイパン陥落の後、マッカーサーの約束の地であるフィリピンを攻略し、日本本土攻撃の足がかりにしようとしていた。
フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であり、大本営も米軍がここの獲得に動くことを予測していた。




●捷1号作戦

 昭和19年10月17日、米軍はレイテ湾口のスルアン島に上陸を開始した。
翌18日に大本営はフィリピン防衛の為の作戦「捷1号作戦」を発令した。
この作戦ではボルネオ島ブルネイで補給を済ませた栗田艦隊がレイテ湾に突入し、米軍攻略部隊を撃滅するという計画になっていた。
他に米艦隊をひきつける囮として小沢艦隊、遊撃隊として西村艦隊、志摩艦隊も参戦。
そして、基地航空部隊である第一航空艦隊も作戦を支援するという目的で戦列に加わっていた。

 しかし、第一航空艦隊の当時の戦力は、零戦34、偵察機1、天山3、一式陸攻1、銀河2の合計約40機しかなかった。
遊撃隊が米攻略部隊を撃破するためには、なんとしても米機動部隊の動きを抑えるしかなかった。
その役目を第一航空艦隊が担っていたのであったが、これだけの戦力では通常の作戦ではどうしようもないということは明らかと思われた。

 実は、この第一航空艦隊こそが最初の神風特別攻撃隊を編成した隊であったのである。
そして、第一航空艦隊の司令長官は特攻の生みの親といわれた大西瀧治郎中将であった。


●神風特別攻撃隊の編成

 大西中将は昭和19年10月17日マニラに赴任した。
19日午後にマバラカット飛行場に出向いた。
そして、このマバラカット飛行場の第201海軍航空隊本部において歴史的な会議が行われた。

 大西中将は遂に、 米軍空母を1週間位使用不能にし、捷1号作戦を成功させるために「零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うがどんなものだろう?」と体当り攻撃を部下達に提案した。

 回答をすべき立場であった201空副長の玉井中佐は、責任者の山本司令が不在のため、自分だけでは決められないと大西中将に話した。
しかし、大西中将は既に山本司令からは了解を得ており、そのことを玉井中佐に伝えた。
玉井中佐は考える時間が欲しいと指宿大尉と共に会議の席を中座し、二人で話し合いを行った。
人一倍温厚謙虚と言われた玉井副長であったが、戦況を考えるに体当り攻撃しか方法はないと決心した。
そして、それを大西中将に伝えた。

 ここに特別攻撃隊の編成が正式に決定された。
玉井中佐は自らが手塩にかけて教育訓練を行ってきた、第10期甲種飛行予科練習生出身の搭乗員23名に相談した。
この時、全員が両手を上げてこの作戦に賛成した。
当時の戦況、そして搭乗員の士気というのはそのようなものであった。

  指揮官には海兵70期の関行男大尉が指名された。
深夜、玉井副長から関大尉は呼び出された。
関大尉は玉井副長から指揮官について相談された。
関大尉は10秒前後、目をつむってうつむき、考えていた。
最期に、「是非、私にやらせてください」と言った。
ここで、最初の特攻隊である24名が決定した。
この隊名を神風特別攻撃隊と命名し、その下に本居宣長の大和魂について詠じた、
 「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」より、4つの部隊にそれぞれ隊名を選択し、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名付けられた。


●猛訓練

 真珠湾攻撃に備えて、休みなしの猛訓練が続いた。
特に雷撃機に関しては熾烈を極めた。なぜなら、落下後通常60メートルもぐる魚雷を水深12メートルの真珠湾で使用しなければならなかったからだ!!
魚雷の改造はもとより、機体を高度10メートル以下に落下させて魚雷の照準発射を行わなければならない。


〜鹿児島市民の証言〜

 そらびっくりしたよ。初めて見る飛行機が自分の頭すれすれをかすめ飛んでいく。それも一機だけではなく、何機もだ。その風圧で漁船が転覆してたっけ。
その訓練は何日も続いた。これはえらい訓練をしとる。きっと近いうちに何か始まるんじゃないかと思いましたよ。


〜雷撃隊員の証言〜

 あの訓練のときは朝8時に飛び立ち、昼食のために帰ってから、再び飛び立ち4時に戻ってから今度は午後8時から夜間訓練でまた空へ。
宿舎に帰り着くのは12時だった。
こうして厳しい訓練を終え、最後の演習も終え、ハワイに向けての遠洋航海となったけど、真珠湾攻撃を知らされたのは出港直前の空母の中だった。


●極秘に進められた真珠湾攻撃

 日米交渉が危機を迎える中もし開戦となった場合、山本長官は密かに真珠湾を航空攻撃隊で攻撃しアメリカ太平洋艦隊を壊滅させる秘策を考え出した。
この攻撃は従来の戦争とは違い航空戦力で敵艦を倒すという近代戦争の始まりを予感させる戦いだった。
奇襲という性格上戦闘員にも一切作戦の内容を教えず、出撃直前まで戦闘員にはハワイ攻撃の内容は明かされていなかった。

開戦直前の1941年11月26日司令長官南雲忠一中将率いる真珠湾攻撃の機動部隊は密かに現、北方領土の択捉島、単冠(ヒトカップ)湾に航空母艦6隻を含む33隻の戦艦と補給艦が集結、そして出航し敵に検索されぬよう通常とははるか北にハワイに向けたルート(冬は低気圧の通り道で大荒れの海域)を通り12月7日に遂にオアフ島北方370キロの海域に到達し、ここから雷撃機、艦上爆撃機、戦闘機は夜明けと共に航空母艦から真珠湾向け飛び立っていった。


●TORA ! TORA ! TORA !

 オアフ島の北海域の航空母艦から発艦した空中攻撃隊はホノルル放送の電波をキャッチしこの放送を頼りに方向探知機がホノルルへの方位を測っていた。
攻撃隊はホノルル放送から流れるジャズを聞きながら真珠湾にむかっていたそうだ。
また、放送からいち早くホノルル上空が概ね晴れの天気をキャッチしていた。
空中攻撃隊が発艦して約一時間半、白波の立つカフク岬の海岸線を発見、ついにオアフ島最北端から侵入に成功し各隊攻撃は目標に向かい西、中央の進路を取った。
攻撃目標に向った攻撃隊はアメリカ陸、海軍の戦闘機の迎撃、敵対空砲火も全く受けず真珠湾上空にたどり着いた。

 TORA ! TORA ! TORA ! とはハワイ空中攻撃隊、渕田美津夫攻撃隊長機が真珠湾を望む上空から「ワレ奇襲ニ成功セリ」を伝えた電信だ。
(この信号は20世紀フォックス映画のタイトルにもなった。)

 当初はアメリカ軍の待ち構えている所への強襲を予想していた攻撃隊でしたが幸運にも?奇襲攻撃となり、「全軍、突撃セヨ」の指令とともに攻撃隊は世界史にも残るこの戦いの一番乗りを争うようにアメリカ太平洋艦隊にむけ攻撃を仕掛けていった。


●真珠湾攻撃


炎上する戦艦カリフォルニア

 日米交渉決裂、11月26日単冠湾を出た機動部隊は一路ハワイへ!
 昭和16年12月2日、攻撃決定「新高山上レ」の暗号電を受け取る。
 8日、6隻の空母から飛び立った183機は米軍に見つかることもなくまず飛行場を爆撃、つづいて雷撃隊が戦艦に対して魚雷を放った。
第2波171機もこれに参加。かくして奇襲作戦は成功。
 帰らぬ攻撃機は29機だった。


〜艦爆隊員の証言〜


瑞鶴から発艦する99式艦上爆撃機

 真珠湾に近づくとすでに第一波攻撃によって湾内や飛行場からはもうもうたる黒煙が上がっていた。
湾上空は黒い雲に覆われていたが、近づくとそれは高角砲弾の弾幕だとわかった。
やがて突撃命令が出て私は攻撃目標を探した。
無傷らしき戦艦を見つけ、高度4000から急降下に移る。
下からは無数の真っ赤なすじがこちらに向かって飛んでくる。
機の左右を音立ててかすめて行く。
高度450で爆弾投下、力いっぱい操縦貫を引く。
かかる重力で目の前が真っ暗になった。
すぐに後ろの射手から「やった!命中したっ」という声が聞こえた。


〜雷撃隊員の証言〜

赤城から発艦しようとする97式艦上攻撃機→

 真珠湾攻撃を知らされたとき最初は興奮したものの、冷静になって考えるとわれわれ雷撃隊はほとんど無事に帰還できないのでないかと思った。
その日は第一次攻撃隊として参加、ハワイ上空に進入した。攻撃目標は空母、戦艦である。
隊長に続いて敵艦に迫る。高度5メートル。
しかしよく見るとそれは巡洋艦ではないか!やり直すべく、私は機を上昇させた。
隊長らはその敵艦に魚雷を命中させている。
ゆっくり旋回して今度はカリフォルニア型らしき戦艦にねらいをつける。
魚雷発射。「当たった ばんざい」うしろで叫び声がする。
見ると水柱が天高くあがっていた。
帰途突如として弾幕が私たちを包んだ。
カンカンという連続音。うしろで「アチィー」という叫び声がした。
何と下から上につきぬけた弾丸は彼の背中と飛行服の内側を突き抜けたのだった。まさに間一髪だった。


●天に沖する大爆発

 日本軍の攻撃開始から数分後、USSアリゾナ号は水平爆撃機の800キロ徹甲爆弾数発が命中した。
甲板を突き抜けた爆弾は弾薬庫に命中、爆薬を誘爆し大爆発を起こし船体がまっ二つにさけ、撃沈した。(この爆発は数世紀前、ダイヤモンドヘッド、パンチボウルの火山が爆発して以来の大爆裂音といわれた。)
このすざましい爆発と火災で生き残った兵士は289人で、乗組員の4/5は戦死した。
アリゾナ号の人的被害は、湾内の全艦艇のなかで一番被害が大きく1,177名もの乗組員を巻き添えに海底に沈んで完全喪失となった。
戦艦オクラホマは乗組員400人以上を艦内に閉じ込めたまま転覆、標的艦ユタも乗組員50人以上を閉じ込めたまま転覆、戦艦カリフォルニア、ウエストバージニアはそれぞれの繋留地点で沈没、戦艦ネバタは唯一湾外へ脱出を試みた戦艦でしたが数発爆弾が命中し湾口外で座礁した。
メリーランド、ペンシルバニア、テネシーの各船も大損害を受けた。


●リメンバー・パールハーバー

 故意か偶然か? 
日米交渉の最後通告(決裂)の文章は日本軍真珠湾攻撃開始後約40分後に手渡された。(当初は決裂の文章手交直後に攻撃が予定されていた。)
結果として戦略的奇襲が政略的な「だまし討ち」になり、アメリカ国民をおおいに憤激させた。
 当時アメリカは第二次世界大戦に参戦するか否かで世論は真っ二つ分かれていたが、日本軍の真珠湾攻撃がアメリカ世論を戦争参加に導きアメリカナショナリズムは日本に対し「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)を合言葉に徹底的に戦うことを決意させてしまった。
 


●本当にだまし討ちなのか?

 戦争が始まるのは時間の問題とされているさなかなぜアメリカはどうぞ攻撃して下さいとばかりに太平洋艦隊を魚雷防御網も張らずに真珠湾に集結させたり、航空機を空襲から守る配備もしていなかったのか?
また、アメリカ商船が真珠湾攻撃を受ける前に日本潜水艦に撃沈されていた事実も知っていた。

パールハーバーに潜水艦が侵入した事実を知っていてもなんの警戒もされなかった。
日本軍空中攻撃隊がやってくる時間にアメリカ本土からB17編隊をハワイに向けて飛ばし、レーダーの誤認をさせたのか?
偶然不運が続いただけなのか?
不幸中の幸いは虎の子、航空母艦(日本の最も重要な攻撃目標)を一隻もパールハーバーに入港させていなかった事だけで、これも偶然だったのか?

 当時のアメリカの情報機関は在米日本大使への暗号を大使より早く解読し真珠湾が狙われている事も知っていた。
真珠湾攻撃は日本がアメリカに挑まれ苦し紛れに挑んだ戦いとも言われる。

当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは間違いなく宣戦布告するであろう日本に派手に真珠湾を攻撃させ第二次大戦参戦反対の世論を戦争参加に導き対戦の大義名分を「リメンバー・パールハーバー」に持って行ったとも言われている。
このような暴露本的な真珠湾攻撃の真相を伝えた書物は多数出版されているが、これはルーズベルト元大統領本人のみ知る事で推測の域を出ていない。


●意見、感想

 私は、日本はむやみやたらに戦争をしていた変な国だなぁ。。と思ってしまいました。
なんでそんなにして日本にとって特別な秘密兵器と言われる戦闘機を造ってまで戦争に行かなければならないのかが私には分かりません。
今だってイラク問題で石油などと色々困っているけど、なぜ政府がうまく交渉して戦争を避けないのかが分からない。
ましてや、私だったら国のために!!って言われても、日の丸特攻隊になって死にたくない・・・。

 私は実際に真珠湾攻撃が起こったパールハーバーに行ったことがあります。
もう博物館と船の沈んだ跡しか残っていなく、あまり当時の戦争の激しさが伝わってこなかったのですが、博物館の中には実際に船に当たって爆発した日の丸特攻隊が落とした魚雷を見てきて、それが当時の私ぐらいの身長の長さほどあったので、爆発はすさまじかったのだろうなぁ・・と思いました。

 ハワイの真珠湾に行く前に私はパールハーバーの映画を観ました。
特攻隊が船に向かって突っ込んでくるシーンはその乗組員たちはいったいなにを考えていたのだろう??などと変なことを考えたりしてしまいました。
結局、その時は日本軍がだまし討ちと言うことで勝ちましたが、その後の第二次世界大戦で見事アメリカに仕返しされてしまったので、その苦労はいったいなんだったのか??などとこれまた変なことを考えてしまいました。。

 戦争は、理由あってやるものだけれども、沢山の無実な人々の命が失われるものなんだなぁと私は思いました。
誰だって平和を望んでいるのに、なぜ戦争にならなければならないのだろうとつくづく思います。

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太平洋戦争の指導者について (小林 哲)

 「太平洋戦争で活躍(?)した指導者について」調べてみました。
日本の戦争指導者であった東条英機や、アドルフ・ヒトラーをしらべました。


>東条英機

 昭和16年に首相に就職しその時から陸相を兼ね、その後内相、軍需相も兼任、さらに昭和19年には陸軍参謀総長までも兼ねた。
東条英機は多くの仕事を兼任していたが、ヒトラーやスターリンのような独裁者ではなく、戦争指導者として国民に塗炭の苦しみを味わせた張本人というわけではない。
ではなぜ東条英機は陸軍の頂点に立ち、首相にまで上りつめたのか。
それは、事務処理能力の高さ、様々な情報や報告を丁寧にメモするマメさ、そして、極めて濃密な部下への手当てとそこから育った東条支持派の厚い層などが関係しているのだろう。


>アドルフ・ヒトラー

 ヒトラーは、ナチスという党を作りドイツ民族は優秀であり、ユダヤ人は不道徳であると主張し、ユダヤ人を差別・迫害・虐殺した。
例えばどんなことをしたのかというと、ユダヤ人の市民権を剥奪し、強制収容所における労働を通した絶滅及び毒ガス・一酸化炭素・排気ガスなどを用いた組織的殺戮をし、ユダヤ人だけでも600万人以上を虐殺した。


>感想

 今回東条英機とヒトラーについて調べてみて、東条英機は部下思いの優しい人だったんだということを初めて知りました。
それに比べてヒトラーは、ユダヤ人を勝手に悪いやつだと決め付けて虐殺、悪魔のようだと思いました。

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太平洋戦争を生きた人々の暮らし (倉野未来里)

 鎖国以降、日本は中国やロシアとの戦争を繰り広げ、国民の生活は決して楽なものではなかった。
そんな暗い生活の中、突然、太平洋戦争が始まった。

 戦争が進むにつれ、「ぜいたくは敵だ」というスローガンが国民に伝えられ、生活がさらに厳しくなっていった。
 米は厳しい配給制となり、玄米も食べるようにすすめられた。
米をつく事を少なくして米の分どまりを良くするためだった。

 1945年8月には、主食の配給は、米が51%、混ぜ物が26%、代用物が23%というありさまになっていた。
こんな主食を食べ続けていた国民の多くは、下痢をしたり、お腹の調子をこわしたりしていた。
国民のほとんどは、飢えない為に、闇で食料を買いあさり、庭などに家庭菜園を作って生き延びようと必死だった。
 しかし、国民が貧しい生活をしている中、陸海軍の軍人には、白いパンや甘いようかんまで配給されていた。
 衣服は、綿製品は軍需にまわされる為、国民は粗悪な化繊製品の物を多く買わなければならなかった。
 色も濃い緑色がほとんどで、あとは黒か紺くらいで、女の人はズボンか、もんぺをはくのが普通となった。
 空襲の恐れが分かりだした1944年には、大都市から農村へ疎開が始められ、都市では防火の用意のため、建物をまびいて取り壊しが始まった。
疎開できなかった人達は、自分たちで床下や庭に防空壕を掘り、空襲になるとそこに避難した。

 空襲の恐れから都市の学童を地方に避難させる学童疎開が始められた。
担任の先生に付き添われて学童たちは、遠い山村に両親と別れて集団で疎開していた。
 しかし、慣れない生活から病気になったり、また食料が十分でないことから栄養失調になる児童もいた。

 1943年12月1日から日本軍の兵力を補うため、大学生の第一回学徒出陣が始まった。
 戦争の影響から日本人の健康状態はだんだんと悪くなり、結核死亡者は、年間20万人にも及んだ。


●感 想

 太平洋戦争の歴史の裏には、厳しい生活と、激しい空襲に耐え、黙々と働き続けた国民の生活があった。
改めて、今の自分は幸せなんだなと思い知らされた。
食べ物を粗末にしない事や、物を大切にする気持ちを持ち続けたいと思った。

 戦争を経験した人たち、特に祖父母の貴重な体験談を聞くのもいいな、と思った。
 世界では、今日も、戦争・内乱が起こっており、罪のない人々が死んでいる。
そんな外国の情勢にも目を向け、視野を広げていきたい。

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太平洋戦争を生きた人々の暮らし (岡田 文)

 1941年に始まった太平洋戦争は、戦争が進むうちに「ぜいたくは敵だ」というスローガンが国民に伝えられ、国民の生活を厳しくしていった。

 食事についてあげると、米の場合、厳しい配給制となって、6歳から10歳の子供だと、1日わずか200グラムだった。
そのうえ、玄米を食べるようにさせられていった。
1942年からは、インドシナ産のとうもろこしが米の中に混ぜられるようになって、代用食としてジャガイモを食べるようになっていく。
1943年には、満州産の大豆が混ぜられるようになって、その年の秋には、米の一部は代わりにサツマイモが配給されるようになった。
そして、米にはどんどんひえやあわなどの雑穀が混入されていった。

 野菜の場合だと、1944年の一日の野菜配給量の平均は、わずか94グラムで、国民は、農村に買出しに行かなければならなかったが、それもかなり制限されていた。1945年の1月には1人26.25グラムまでに制限されてしまった。

 しかし、こうして国民が苦しんでいる中、陸海軍の軍人には白いパンはもちろん、甘いようかんまで配給されていたのだ。

 衣服についてあげると、衣服は戦争の為の重要な資材だとして、1942年からは切符による配給制となった。
その配給もかなり少なく、背広を1着とオーバーを買うと、その1年間は他の衣料を買えないくらいだった。
しかも、綿製品は軍にまわされるため、国民はスフといわれた粗悪な化繊製品の物を買わなくてはいけなかった。


 私は、暮らしについて調べてみて、改めて戦争って恐ろしい物なんだと思った。
そして嫌な物だとも思った。
国民が苦しみに耐えているのに、軍人は裕福に過ごしていたりするからだ。
戦争なんて本当にしないでほしいと思った。

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僕の中の太平洋戦争 (吉川拓野)

●始めに

僕は太平洋戦争についてまとめようと思います。
僕が勝手に思ってることですが僕の頭の中にはこんな公式(?)があると思います
「戦争=悲しい、苦しい、悲惨」確かにそうです。

僕もそう思いますが今回はこの戦争のウンチクを書いていきたいんです、僕は。
なぜなら、この公式は結論ですよね?でも戦争中のみんなの素朴な疑問もあると思うんです。

例えば戦争機内でトイレに行きたくなったら トヵ。
戦争についてオモシロおかしくまとめる気は決してありません。
僕は素朴な疑問について書いていくだけです。そのことを理解したうえで読んでください。

では、本題に入りたいと思います。今回は主にこの4つを知ってもらいます。

・敵性語ってなんぞや
・もし戦闘機内でトイレにいきたくなったらどーしましょ?
・戦艦大和はどのぐらいおっきぃんじゃ!


ではまず 敵性語ってなんぞや からいきましょうか。

え〜敵性語っていうのは簡単に言って「日本文化を愛そう!日本精神を大切にしよう!」という愛国主義から生まれたんです。
例えば「チェリー」っていう果物、ありますよね?
あれは敵性語でいうと「桜」なんですよね。
もっと面白いのは野球の「ストライク」と「ボール」。
あれを敵性語でいうと「よし」と「だめ」なんですよね。とても面白い。
あっそうそう。ベースボールを野球と訳したのは正岡子規なんですよね。
まぁウンチク界ではこれくらい常識なんですけどね(笑)

あ〜わかりやすいのがありました。ドレミファソラシドをハニホヘトイロ。
これは有名ですよね。

どうです? わかってきましたか?
でもこの敵性語ですが、戦時中は高校、大学などでは普通に英語が使われていました。
つまり「流行」みたいなものですね。


次に もし戦闘機内でトイレにいきたくなったらどーしましょ? ですね。
戦闘機中でも驚異的な航続距離を誇るゼロ戦のパイロットには、股間にあてて尿をためる小さな袋が用意されていたそうです。
けれども飛行中の用足しは難しく、面倒とばかりに操縦桿の根元をめがけ、あるいは座ったまま失敬してしまうことも多かったとか。
不思議と臭くなかったそうです。

いっぽう、長時間の哨戒任務に活躍していた海軍飛行艇(離着水できる大型航空機)には、簡易トイレがついていたとの報告もあります。
サイパンから飛来した米軍のB29爆撃機にも簡易トイレがついていました。
面白いものですよね。くさくないって。。。  絶対ウソですよね(笑)


最後に 戦艦大和はどのぐらいおっきぃんじゃ! です。
自転車で走り回れたほど広かった大和。全長は263メートル、甲板から見上げた艦橋は約40メートルもあったとか。
ものすごくアバウトにいいますと、横倒しにした都庁に新宿タカシマヤをドーンと乗せた感じです。
横須賀に保存されている"三笠"の2倍、横浜の"氷川丸"なら1.5倍の大きさがありました。
新任クルーには、艦内指定場所を数カ所巡ってハンコを押してもらうオリエンテーリングふうテストが課せられたそうですが、だいたいが迷ってしまったと伝えられています。無理もないですね。
ていうかこのぐらいの広さまでいくと想像できないですよね。
ホントに広かったんでしょうね。

これで終わりです。疑問は改善されましたか?


最後に

毎回、長期休みの歴史の宿題は楽しみにしてるんです。
自分の意見が言えるんで。で今回はウンチクについてまとめてみたんですがどうですか??

みんなウンチクはくだらないといいますが僕的にこんな素朴な疑問から今のこんなに不自由ない生活が生まれてると思うんです。
でも逆にいうとくだらないことで森林伐採やゴミが増えたりと悪い面もたくさんあります。
素朴な疑問は発展にもつながれば破壊にもつながります。とても難しいですよね。
これからの日本は素朴な疑問とどのように向き合っていくか。
是非みていきたいものです。


この太平洋戦争は広島の原爆ドームや湾岸戦争と数々の大きい爪あとを残しています。
僕は歴史というのは過去の失敗をもう2度と起こさないために勉強してるんだと思っています。
最近はイラク戦争など世界の状況は決していいとは言えません。
そしてこの状況を変えるのはブッシュ大統領でも金正日でもありません。
僕等なんだと思います。
僕等一人一人の勇気や思いやりなんだと思います。
まずは小さな勇気から。。。

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Wordsworth - Version2.6.0 (C)1999-2002 濱地 弘樹(HAMACHI Hiroki)