第31回公文国際学園「表現祭」に寄せて

公文国際学園中等部・高等部 校長 梶原 晃

公文国際学園の生徒たちには、「異質の他者を認める」という土壌の上に「自ら考え、判断し、行動する」という主体性を育んでもらいたいというのが私の一貫した願いです。

とはいえ、学校の成員(としての生徒)の主体性と、学校の組織(あるいは構造)との整合性は時として反発しあうことがあります。たとえば、表現祭の企画で「面白いからこれをやりたい」と主張する生徒たちと、「それは表現祭の企画とはいえない」という実行委員たちとの間で論争の起こることが間々ある、まあそんなことです。この事態を解消する(というか、なんとか治める)ために、生徒たちは相互に(ときには両者の間に教師が緩衝材的に割り込みながら)コミュニケーションをとることになります。

ところで、この「コミュニケーション」という言葉の意味を、あらためて『大辞林』で調 べてみると「互いに何事かを伝達し合う」ことだと説明されています。あくまで「伝達」 であって、「共有」の意味は含まれていないということにご注意ください。実際、昨今の 生徒たちの「コミュニケーション」の様子を見ていると、自分の主張をさいごまで言い放 ち続ける方が「勝つ」という状況が散見されます。「異質の他者を認める」どころではな くて「異質は一切認めない」かのような「伝達(=自己主張)」に終始しているというわ けです。実は動詞の「コミュニケート」には「多くの人に共通のものとすること、分かち 合うこと、分け与えること、分けること」というニュアンスの原義があります(OEDより )。きっと人々は、自分の主張を伝えることの意味や技術の方が、「聴くこと」のそれよ りも大切だと考えたから、原義のニュアンスをどこかに置き忘れてきたのでしょうね。こ とにSNS全盛の時代です。自分の言いたいことを言いっぱなし、自身の判断や行動の責任 を取ろうともしない輩(やから)がいかに多いことか。

そんな時代であっても、私は学園の生徒たちから明るい希望の光を感じています。今年の 表現祭のスローガンは「Sparkle」。そのものが光るのではなくて他からの光を反射してキ ラキラ光るという意味をもつ言葉です。光を分かち合いながら、さらに美しく輝きたいと いう生徒たちの思い。うれしい限りです。どうか素晴らしき表現祭でありますように。